仕事の帰り道、とぼとぼと。

いつも電車だけど、たまには歩きも良いかもと思って。
駆け抜ける風を受けて解る、風がずいぶんと暖かくなった。

ついこの前まで雪が都会を埋め尽くしていたのに、不思議なものだ。
時々物陰に残っている小さな雪を見て寂しくなったりもする。
けれどそれは新しい季節の幕開けだと考えれば寂しさは胸の高鳴りへと変わる。

「暖かくなれば、声も出しやすくなるわね……」

人ごみを避けていたら、人知れず川原の土手に出ていた。
流石に川のせせらぎまで聞こえはしない、後方から聞こえる都会の喧騒がかき消しているせいか。

月の光が反射して、川がゆらゆらと輝いている。
それだけで、どこか幻想的な感覚に陥る。

さながら私は月の踊り子。 唄と舞を月に捧げる。
優しく見つめてくれる、孤独じゃないことを教えてくれる夜に感謝をしながら。

「…………~~♪ ~♪」

雰囲気に酔ってしまったのだろうか。
それとも、見渡しても誰も居ないことから開放感に突き動かされたのかもしれない。
気付けば喉から音が泳いでいた。

歌詞の無い、ヴォカリーズ、母音だけで川の流れに沿うように歌う。
メディアの前では歌姫と呼ばれているけれども、今の私はただの歌が好きな女の子。

「~~~♪ ~~…………んんっ」

少し咳き込む。 二度、三度。
その度に藍色の空を息が消える間白く染める。

「…………まだ少し、声を出すには早かったかしら」

いくら暖かくなったといっても、冷たい風であることに変わりは無い。
歌をうたう人間として、喉はなによりも大切にしなければならない所だ。
発声は諦めて、星を見ることに徹する。


とことこと、先程よりも足取りは軽く。


「ねぇおかあさん!! 星がきれーだよ!!」

通りすがりの親子のその女の子が、綺麗なソプラノでそう叫んだ。
転びそうなくらい真上に頭を上げる子どもを、手をつないだまま母親が優しそうに見つめている。

「そうね、本当に綺麗ね」

コントラルトの声で、夜空を見ていないのにそう同意する。
多分、その子の見えている星空が、自分で見るよりも美しいと解っているから。
薄汚れた空気によってぼやけた星でさえも、その子には宝石に見えているだろうから。

私達が今見ている星は動かないのに、まるで追いかけるように駆ける子ども。
母親は注意しつつも、声色は絶えず優しさを失っていなくて。
気付いた時には、もうその親子の声は遠くの方に行っていた。


そんな私は口に浮かんだ微笑みが消えないでいて。
そして少しだけ、母親の事が恋しくなる。 いや、本当はすごく。
この前届いた手紙の返事が急に書きたくなってしまい、足取りが速く早くなる。

「……………………ふふっ」


都会は星が見えないなんて嘘。
きっとみんな、上を見る余裕が無いだけ。

そりゃ、自然豊かな所と比べて空気が澄んでないから見えないのかもしれないけど、
星は確かにそこに存在している。
どんな所で見たって、変わらず星は必ず私達を見守っている。

月と一緒に。 眠たくなるほど長い間ずっと。
母のように、慈しむようにいつまでもずっと。


もう一度空を見上げる。
見納めというわけでは無いけれど、それでももう一回だけ。
良く目を凝らすと、冬の大三角が少しだけ見えた。

こいぬ座、オリオン座、おおいぬ座の間にあるポッカリと出来た隙間。
きっと本当はとても広く大きい隙間なのだろうけど、
こうやって手を広げると、あっという間に消えてしまう小さい大きな隙間。

翳した手のひらをヒラヒラと振る。
星空にさよならを告げるように。 またねを繋げるように。
その瞬間、一際大きく星達が煌いて見えた。

気のせいかもしれない、ただ体内の酸素が少なくなって視力が一時的に低下していたからかもしれない。