動きを止めたメトロノームを手に取ってゼンマイを巻いていると、ふと、傍の階段に一人座ってこちらを見ているのに気付いた。
 聞こえるように溜息をついて、顔をしかめながらちらちらと視線を投げても、腰を上げる様子がない。鬱陶しい、と言うわけにもいかなかった。階段に座る彼の年齢は確か二十八で、少し皺のついたスーツと汚れたスニーカーが似合うステレオタイプな――教師だったから。
 鬱陶しいのであっち行ってください、なんて口が裂けても言えないのだった。
「何か用ですか」
 遠まわしな言い方なら、きっと許されているはずだった。
「いや、別に」
「そうですか。暇なんですね」
 吐き捨てるように嫌味を言って、私はゼンマイの巻き終わったメトロノームを窓枠に置いた。奥行きのある窓枠、その向こうにはモダンな造りの校舎と若葉を纏う木々。それらの間を縫うように生徒たちが歩いている。きっと春の濃い匂いは薄れ始めていて、五月特有の爽やかな風が揺らしているのだろう。
 私は学校が嫌いだった。ずっと、嫌いだった。他人の話し声が嫌いだ。笑い声も嫌いだ。怒鳴り声も、すすり泣く声も嫌いだ。
 耳慣れた音、メトロノームの規則正しい音に合わせて、低い声から高い声まで長く発声する。今、校舎の隅っこ、この階段の踊り場は素晴らしい秩序に満たされていた。テンポ60、12拍。
 コツ、コツ、という生真面目な音と自分で自分の声を支配する感覚。基礎練習がつまらないなんて、にわかには信じられないことだ。
 放課後の四時から五時くらいまで、ここは何にでもなるのだった。聖堂、武道館、海、砂漠。私が思い浮かべる何もかもに。モダンな造りの新校舎の向かい、取り残された古ぼけた旧校舎の面影は消し去って。
 基礎練習を終えてから、私は迷う。何を歌おうか。
 別段、一曲、二曲をどこかで発表するわけじゃない。合唱部は目標があるという一点だけ、羨ましかった。
 今日は何にしようか。今の気分は――これだ、と思う曲が耳に浮かび上がってくる。イントロがおずおずと私の前に跪く。
 息を一つ吸い込んだところで、幻惑の音を引き裂かれる。くしゃみだった。
 誰の?
 振り返って、苦々しい顔を見せてやると彼は同じように苦々しい顔をした。
「悪い。ここ、埃っぽくって」
「邪魔しないでくれます?」
 きっぱりと言うと彼は苦笑して、ようやく腰を上げた。分かったよ、と階段を降りていった。
「またな。頑張れよ」
 できれば、もう来てほしくなかった。頑張れよ、の方は素直に受け取って、軽く会釈をした。
 彼の姿が見えなくなってから、改めて曲を選ぶ。
 さっき思い浮かんだ曲はなんだったか、もう忘れていた。


「こんにちは。やってるね」
 声に振り向くと、彼は階段を降りているところだった。よいしょ、と下から三段目に腰かけて、気にせずどうぞ、とでも言うように手をひらりとふった。
 私は小さく溜息をついてから、基礎練習に戻った。
「なぁ、如月。アレ、歌えるか」
 基礎練習を終えたところで彼が話しかけてきた。私の時間に一歩踏み込まれた気がして、思わず眉間に皺がよる。
「アレって何です?」
 無愛想に尋ね返す。彼は曲名を口にして、有名な曲だけど歌えないかな、と照れくさそうに頭を掻いた。残念なことに、少なくとも彼にとって残念なことに、私はその曲を知らなかった。
「すみません。知りません。ですから歌えません」
「そうか。しかし、知らないって……如月って普段何聴いてるんだ?」
 彼は心底不思議そうに訊いた。
 自分の知っているものは、他人も知ってて当然とでも?
 そんな刺々しい言葉を飲み込んで、私は努めて冷静に質問に答える。
「別に……クラシックとか」
「クラシック」
 彼はまるで初めて聴いた言葉のように、おうむ返しにした。ジャズ、と答えても、ハードコアパンク、と答えても、きっと同じようにおうむ返しにするんだろう。
「モーツァルト、ショパン、バッハ?」
「ええ、まあ、そんな感じです」
 その調子ですよ、と慰めてやりたくなるくらいぎこちなく、彼は作曲家の名前を数人挙げていった。プラトン、と呟いたところでもう弾切れらしかった。
「それは哲学者でしょう」
 指摘すると彼は首を捻った。誰と間違ったんだろう、と。
「それで……如月の好きな作曲家は?」
 何故だか私は少し躊躇った。少し間を置いて、ムソルグスキー、と呟いた。バッハにさえ疑問符をつける人だ。
「知らない」
 知ってるはずがなかった。
「ほら、"展覧会の絵"ですよ」
 何故だか私は食い下がった。お互いに、知らない知らないでこの会話を終わらせるのは何だか居心地が悪かったのかもしれない。
 展覧会の絵。名前だけなら、いやメロディなら誰でも一度は耳にしたことがあるはずだ。
「あ、それなら知ってるよ」
 彼は嬉しそうに手を叩いた。しんとしていた踊り場中のあちこちに拍手の音が反響する。つい、私も手を叩きたくなる。
 大好きなんですよ、と言いかけたところへ、予期せぬ彼の解答が飛び込んだ。
「エマーソン・レイク・アンド・パーマーだろ」
「……はい?」
「あれ、でもELPはロックバンドか」
 いー、える、ぴー。今度は私がおうむ返しにした。
「ムソルグ……えーと、が好きなんだよな?」
「はぁ」
「展覧会の絵、ってELPだろ?」
「ムソルグスキーです」
 お互いの頭の上にはきっとはてなマークが浮かんでいるんだろう。お互いがお互いの言葉に首を捻った。
 いーえるぴー?
 むそるぐすきー?
 そうしているうち、放課のチャイムが鳴った。毎日きっかりこの時間に、音の魔法が解けるのだった。


「もしもし、お母さん?」
 家に帰って、食事と一通りの家事と風呂とを済ませた後、母親に電話をした。
 彼の言っていた曲名を告げると、母は、ああ、あれね、と軽くメロディを口ずさんだ。私はそのメロディにああ、あれね、とは言えなかった。初めて聴いたのだった。バンドの名前と曲名を訊いて、メモしておいた。
 "スピッツ 渚"と。
 さて、もう一つ、訊くことがあった。
「あの、お母さん。いーえるぴー、って知ってる?」
「いー、える、ぴー」
 母の声は私とそっくりだった。
「知らないよね。ごめんなさい。私、そろそろ寝るね。おやすみなさい」
 口早に言って、返事を待たず電話を切った。母はいつも最後にいくつか小言を言う。
 ごはんは? 学校は? 友達は?
 鬱陶しい、と言いづらくて、私は耳を塞ぐ。耳を塞ぎ、口を噤み、早々に布団に潜った。

 翌日、私は練習を休んだ。旧校舎には寄らず、げた箱から昇降口を出て五月の夕方を泳いで行った
 いつもよりちょっと遠回りの道を歩いていく。道行く人の顔ぶれも全然違う感じがした。いつもの時刻、いつもの道ですれ違う人々のことを覚えているわけじゃなかったけど、やっぱりいつもとは違う感じがした。
 私は道を曲がって、途中にあるレンタルCD店のドアをくぐった。店では流行の歌がかかっていた。かと思うと、次に流れたのは十年以上も前の曲だったり、その次はもっと前の時代の曲だった。
 私はメモを鞄から取り出して、邦楽の棚へと向かった。人気のバンドだった。何枚も並んでいるうち半分近くは既に借りられている。一枚一枚、手に取って曲目を調べていく。彼のリクエストした曲の収録されたアルバムは借りられていなかった。CDのケースより一回り大きい外側のケースから取り出す。
 さて、次は"いーえるぴー"だ。
 とりあえず、同じ邦楽の"い"の欄を探す。無かった。
 "え"の欄を探して、結局こちらも見つからなかった。
 小さく溜息をついて、そばを通った店員を呼びとめた。
「あの……すみません。"いーえるぴー"ってどこの棚にありますか?」
 いーえるぴー、と店員は怪訝な顔でおうむ返しにした。あまりに親しみのないおうむ返しだった。私も、彼にこういう顔をしていたのかもしれない。
「エマーソン……なんとかって」
「ああ、ELP。エマーソン・レイク・アンド・パーマー」
 店員はこちらです、と邦楽の棚から洋楽の棚へと私を案内した。そして、"E"の欄を指した。
 エマーソン・レイク・アンド・パーマー。その名前を背負ったケースが並べられている。
「ありがとうございます」
 私が礼を言うと、店員は無愛想に仕事ですから、と言ってその仕事とやらに戻った。あれくらい無愛想な方が、私にはちょうどいい。
 しゃがみ込んで、タイトルを追っていく。"タルカス"、"恐怖の頭脳改革"、"Emerson, Lake and Palmer"……。
 あった。"展覧会の絵"と印刷された背表紙。そのアルバムを外側のケースから抜き取って、スピッツに重ねた。
 なんとなく、ELPのアルバムをもう一枚重ねた。"恐怖の頭脳改革"という妙なタイトルが気になったのだった。
 計三枚。そのままレジに持って行っても良かったが、三枚借りるのと五枚借りるのと値段はさほど差がない。折角だからもう二枚、借りていくことにした。
 結果、未聴の三枚、ELPが二枚とスピッツが一枚に加えて、アイアン・メイデンとポリスという、何ともごった煮なレンタルの仕方をしてしまった。
 さっきの無愛想な店員がレジを打って、一週間の期日を説明した。代金を支払って、CDの入った袋を受け取る。
 クラシックのCDは借りない。クラシックのCDは拘らなければ安いし、借りるよりは持っておきたいからだ。クラシック以外も気に入ったものはなるべく買っている。
 足早に店を出た。何のCDを借りても、店の外を出ると自然とワクワクしてきて、足取りが軽くなる。 今日は、少しだけ夜更かしをしよう。お母さんに内緒で。



 昨日借りたのは、"当たり"だった。アイアン・メイデンとポリスは元々好きだったし、今度安いのを見つけたら買っておこうと決めた。
 スピッツとELPはどれから聴くか迷って、まず、"恐怖の頭脳改革"をプレーヤーにセットした。
 少し、間を置いて一曲目が始まる。私はそのイントロにまず、胸を射抜かれた。そして、伸びのあるボーカルが荘厳に歌い上げる。
 ああ、これは――聖地エルサレム。
 初めて聴くメロディではないのに、初めての感覚だった。久々に、音楽を聴いてこんな気持ちになったかもしれない。
 私は一晩かけて、ELPとスピッツを聴きこんだ。どんなアーティストも、どんなアルバムも、一曲は、いや一か所は必ず良いところがある。
 音楽を聴くのは、自分で歌うのと同じくらい楽しい。

 さて、私は基礎練習は毎日同じ量をこなす。今日も同じ量をこなしたが、いつも楽しくてじっくりやれる練習に何かじれったさを感じた。
 練習を切り上げて、自由時間に入る。今の気分は――決まっている。今の気分は昨日の夜から、決まっている。
 不意に、あのオルガンのイントロが目の前に現れる。均整なオルガンと丸っこいベース音、そして、どこか楽しげに跳ね回るドラム。聖地エルサレムだ。ただし、いーえるぴーの。
 私は息を一つ、大きく吸った。

 歌い終わって後ろを振り向く。彼が聴いているという確信があった。彼は居た。この間のように階段に座っているのでなく、立ったまま驚き、嬉しそうに私を見ている。
「ELPか」
「ええ、まあ。あれ、カバーなんですよ?」
「そうなのか」
 彼はふぅ、と溜息をついて階段に腰かけた。教師然と傍に立っているより、そっちの方が似合っていた。
「"展覧会の絵"もカバーです」
「そうなのか」
「ELP、が、ムソルグスキー、を」
「そうなのか」
 彼はどこかふわふわした口調で相槌を打った。私はちょっと肩をすくめた。
「それじゃ、次は先生のリクエスト。スピッツで渚」
 先生はおお、と歓声を上げてパチパチと手を叩いた。拍手が鳴りやんでから、私はあのイントロを耳に思い浮かべる。踊り場を覆っているピン、とした静けさを一瞬だけ感じ取る。渚。シーケンサーの音、それから弾けた水の粒のようなきめの細かいギター。
 私は今一度、息を吸う。
 ――囁く冗談でいつも、繋がりを信じていた。

 歌い終わると、先生は盛大な拍手を送ってくれた。二か所、音程がぐらついたのと、ビブラートがへろついたのとで、私は自分の歌に不満だった。
「いや、如月、すごいよ。素敵だ」
「でも……ミスしました」
「どこで?」
 俯いた顔を上げると、先生はまったく屈託のない顔をしていた。
 ココとココとココです、なんて、言うのは簡単だけど、私はそれ以上自分のミスを言及しなかった。先生はなんて言っても褒めてくれそうだったから。それくらい喜んで私の歌を聴いてくれた。
「昨日は練習しなかったみたいだけど」
 先生は簡単に"聖地エルサレム"と"渚"の感想を述べてから、思い出したように訊いた。
「先生は昨日もここに来たんですか?」
「いや。職員室に居たんだけど、聴こえなかったから」
 私はちょっと居心地が悪くなった。自分の声が職員室にずっと筒抜けだったなんて。それを言うと、先生はちょっと笑った。
「野球部のかけ声よりは、如月の歌を聴いてる方が楽しいよ」
 先生はそう言って、野球部のかけ声を真似た。
 さあ来ーい! 返球おせーぞ! とれねー球じゃねーだろ!
 一通りもの真似をして満足したのか、あるいは私が笑わないので嫌気がさしたのか、先生は話題を変えた。
「……なぁ、如月、部活は?」
 予期せぬ質問にドキッとした。一瞬詰まったようになった喉が、元通り動くのを待ってから、答える。
「辞めました。つい、一週間くらい前に」
「そうか。……でも、練習は続けるんだな」
「まずいですか?」
「いや……まずいってこたない」
 先生は何度か、問題ないさ、と呟いた後尋ねた。
「何で辞めたんだ?」
「……別に、単純ですよ。あの人たち、やる気ないし」
 千早ちゃーん。ふと、どこかへつらったような声が、耳に浮かぶ。
 何のために部活に入ったか。歌う為だ。放課後の暇つぶしに、部員とだべる為じゃない。
 自分勝手と言えば、自分勝手だった。放課後、部活の時間になると、私は先輩への挨拶もそこそこに割り振られた練習場所に向かった。階の違う吹奏楽部の遠く柔らかなロングトーンを聴きながら、人気の少ない廊下で練習するのはそれなりに楽しかった。
 それを毎日、続けていたら、性格のキツい先輩に目をつけられた。
 "合唱の基本は協調でしょう"
 協調のかけらも無いような言い方だった。それで、面倒になる前に退部届を出した。それだけのことだ。
「合唱部なら色々と学ぶこともあるかと思ったんですけど、あの調子ですから」
 先生は目を細めた。あの調子、を想像しているのかもしれない。
「ここで練習、しても構わないですよね?」
「ああ、それは問題ないと思うよ。多分。旧校舎だから人も少ないし」
 私たちの学校の新校舎は主に生徒が使っている。大抵の部活も新校舎で行われている。旧校舎で授業だけで使う教室、職員室、事務室等が設置されていて、名前だけの部活の活動場所もこっちだった。放課後は人が少なくて本当に静かだった。だから、考えてみれば職員室に声が筒抜けるのは当たり前で、ともすればこの話し声だって聞こえてるかもしれなかった。
 チャイムが鳴り、旧校舎の静けさを揺らした。
 残響が消えるのを待ってから先生は訊いた。
「如月は、何のために歌を練習するんだ?」
 何のために。少し考えて、私は首を捻った。
「自分でもよく分からないんです」
 先生はちょっと驚いたような顔をした後、にこりと笑った。彼は彼で何て言えばいいか分からなかったのだろうか。
「……じゃ、またな」
「はい、さようなら」
 校舎を出た後、私はふと気が付いた。またな、に、素直に"はい"と言って、別れの挨拶をしたのだった。
「珍しい」
 独り零して、また夕方を泳ぐ。


 先生は暇なときは私の練習を見に来た。時々、忙しくて来られないこともあったけど、歌は職員室でしっかり聴いていると言っていた。
 先生が練習を見に来ている時、今まで通り気分で選曲して歌う他に先生のリクエストを受けることもあった。ちょっと前なら、鬱陶しいのであっち行ってください、くらい言っただろうけど。
「すごいよ。お金取れるレベルだ」
 ELP版の"展覧会の絵"をリクエストで歌った時、先生は眼を輝かせて言った。興奮気味に溜息をついて。
 先生はお世辞とかじゃなくって、本当に心からそう言ってくれる。だから困るのだ。
「千早の歌、評判いいよ? そのうちさ、先生相手に歌ってくれないかって」
「それはちょっと」
「……千早は将来さ、歌手になるとかって考えてないのか?」
「どうしたんです、急に」
 以前に、何のために歌を練習するのか、と訊かれた時、私は分からないと答えた。実際、分からないのだけど、歌手になることはよく考えることではあった。
 ただ、歌手になるために練習するのかと言われると、違う気がした。
「よく考えます、けど」
「オーディションとかは?」
「受けたことないです」
 私は、はぁ、と溜息をついて、髪を指先でくるくるとねじった。私はオーディションにちょっとした怖れというか緊張を感じていた。
「俺は十分通用すると思うけど」
 先生は私の緊張を見抜いていたらしい。
「……私、本格的に練習し始めたの、ここ数年で。それこそ、付け焼刃みたいな技量で挑んでも」
「技量じゃなくて、俺、千早の声が良いと思ったから」
 思いがけない言葉に、カァッと首筋に血が上って頬が熱くなる。
「こ、声ですか」
「うん。どうした。顔が赤いけど」
 先生は苦笑いして、私の赤面を指摘した。
「……声、褒められたの初めてで」
「そうなのか?」
「上手、とかはよく言われるんですけど」
 嫌味じゃないですよ、と付け足す。
 どちらかといえばうんざりしているのだ。誰だってちょっと練習すればできることなのに。
「千早の声は、才能だと思うよ」
「まだ、まだ、って言ってるうちに枯れてしまうんでしょうか」
 少し自嘲気味に言う。先生はそれは分からない、と神妙な顔で言った。
 暫く、互いに黙っていた。踊り場を覆う静けさが、風によじれた。
「私、男の子に生まれたかった」
 ポツリ、と言って、私ははっとなった。無意識のうちに零れてしまった言葉を手繰り寄せ、自分の胸の内を覗いたような気分になる。
 男の子なら。ふぅ、と溜息をつく。
「男の人って羨ましい。声も才能も私の想像のつかないところにあるから」
「俺は……」
 俺は、と言いかけて止めたのは賢明だった。先生と私を比べても何も意味はない。
「男尊女卑とか、そういうんじゃないんです。もっと根本的な」
「……分かってるよ。でも、羨むことない。女性には、千早にはまた違う才能が宿ってる」
「違うから、羨むんです。どうしようもないですね、すみません」
 気にしてない風を装って笑みを作っても、先生は笑ってくれなかった。
 これ以上続けると、自分の中にわだかまっているものが顔を覗かせそうだった。
「私、オーディション、受けてみようと思います」
 決意を口にする。先生は私の肩に手を置いて、無言で頷いた。私は同じように無言で頷き返した。
 静けさが沈殿する踊り場に私たちは埋もれていた。


 基礎練習を済ませてから、私は目を瞑って考えた。今の気分では、歌いたい歌は何も思いつかなかった。
 溜息をついて、いつも先生の座っている階段に腰かけてみる。この席から私はどう見えていたのか。私の頭はちょうど窓くらいの高さだろうか。窓枠の向こうの均一な水色に、もう一度溜息を吐いた。
「今日は何も歌わないのか?」
 階段の上に先生が立っていた。控えめに挨拶すると、先生はゆっくりと降りてきて私の隣に座った
「昨日、二か所ほど、オーディションの申し込みして」
「緊張するか?」
 返事を躊躇う。
「上手く行くさ。仮にダメでも、捨てる神あれば拾う神あり、って……」
 先生はそこで区切って、頭を掻いた。
「ごめん。オーディションの前から、落ちること考えちゃダメだよな」
「いえ、良いんです」
 私は自然に笑った。先生は笑い返してくれた。
「ご両親には何か言われたか?」
「……いえ、母には何も言ってないので」
 母には、という少し不自然な言葉で先生はおおよそ察してくれた。そっか、と相槌を打って。
「早いうちに正々堂々、言った方がいいと思うよ」
「別に、言うのが嫌で黙ってるわけじゃ……」
 私は口を噤んだ。言おうと思えば、昨日のうちに電話でも何でもできた。お母さんに反対、されたところで何だというのか。
「……立ち入ったこと訊いてもいいか」
 立ち入ったこと。家族のことだろう。どうぞ、と私は質問を促した。
「お母さんと仲悪い?」
「悪いわけじゃないです」
 良くもないですけど、と付け足した。先生は黙った。
「私、一人暮らしなんです。……家に居づらくて、無理言って家を出してもらったんです」
 どうして居づらいのか、とあっさり訊けるほど私たちは仲良しじゃないし、先生は無遠慮じゃなかった。
 はぁ、と一つ溜息を吐く。家のことを考えるだけで憂鬱になれる。私の周りの憂鬱気取りの人間はさぞかし羨むだろう。
「ちょっと、重たい話、しても?」
 今度は先生がどうぞ、と言った。重たい話の正体が何なのか、先生は見当がつかないだろうけど。
「私の弟、かなり前に事故で死んじゃったんです。それ以来家がギクシャクしちゃって」
 一息に言ってしまう。間を置かず、簡単に、淡々と説明していく。
「それ以外にも色々絡んでたんでしょうけど、両親が離婚して……中学までは母と二人暮らしで」
 高校は義務教育じゃないから、と筋が通っているんだかいないんだか分からない理由で一人暮らしを許してもらっている。
 お金は、母が出した。入居の保証人は母だった。高校入学の手続きも、当然母だった。
 濃い、溜息が喉から漏れた。
「わがまま言って、贅沢な子供部屋を買ってもらっただけなんでしょうか」
「……言い方、だよ」
 先生は寂しそうに言った。
「先生、私、本当に時々……時々なんですけど」
 隣に座る先生の眼を見る。私はこれから残酷なことを言う、と目で合図すると、先生は少したじろいだ。立ち入ったのは先生だ。私は彼の手を引く。
「優が最初から生まれていなければ、こんな風にはならなかったのかと、思うんです」
 お母さんは、未だに優の話をする。お父さんにはそれが耐えられなかった。私にも。
「お父さんもお母さんも仲良しで、私も……」
 私も。私。私は、何だったろう。
「……私も合唱部で仲良くおしゃべり出来たんでしょうか」
 溜息を吐いた。優が生きていても、最初から居なくても、私のこの底意地の悪さは変わらないだろうか。
「千早は、優くんのために歌を?」
 先生のその質問は、今まで意識しなかったことだった。だけど、不思議としっくりきた。
「……そうかもしれません。謝る代わりに、歌い続けるのかもしれません」
 それこそ天まで届くように、と自分の安っぽくポエティックな言い方に自嘲的な笑みが零れる。
 優はもういないのに。天にもいない。何処にも。
 チャイムが鳴った。いつもの鐘の音が鳴った。踊り場の空気はいつもより少し冷えていて、少し重かった。


「もしもし、お母さん」
 電話の向こうで少し戸惑いというか、そういう気配がした。前から、あまり日にちが空いていないのに、電話がかかってきたからだろうか。
「私、歌手になろうと思って」
「……そうなの」
「それでオーディション用に履歴書はもう用意してあるんだけど、保護者の同意書が必要なの。書いてほしいんだけど、いい?」
 いい? と、疑問符を付けたのは、私のせめてもの礼儀なのか。
「分かった。すぐに必要なら、お母さんのところに直接持ってきて」
 お母さんは意外にも何も言わずに了承してくれた。
「ありがとう。じゃあ明日にでも持って行くね」
 そうして切ろうとしたところへ。
「ごはんはちゃんと食べてる?」
「毎日ちゃんと食べてる。じゃ、また明日。お母さん」
 ようやく電話を切った。お母さんの小言が不思議と鬱陶しくなく、むしろ温かに感じられた。
「珍しい」
 独り零して、私はCDプレーヤーの電源を入れる。この間の五枚はとっくに返したことを思い出して、棚から取りに行く。今の気分は――


 オーディションを二つ受けて結果を待っている間、さらに二つ、オーディションに応募をした。
 二つで取りあえず、と思ってたのが、少し欲が出てきた。条件に合うオーディションはチェックを入れ、連絡先はメモしておいた。
「千早、一昨日はオーディションだったんだろ? どうだった」
「さほど大崩れはしませんでしたけど」
「けど?」
 階段に座って、オーディションのことを話す。基礎練習は毎日するけど、気が散って、歌う気にはなれなかったから、こうして肩を並べて話をする。
「あんまり面白くなかったんです。アレ歌って、とかは言われるんですけど、歌い終わっても拍手も感想もないですから」
 先生みたいな人が審査員なら良かったです、と笑って見せた。
「オーディションの結果はいつ頃分かるんだ?」
「早いので二週間くらい……だったような。後は郵便で通知が来るとか。すみません、あんまりよく分からないです」
「いや、いいよ」
 先生は寂しげに言った。何故寂しげか。私は昨日、訳を知った。私たち生徒は、と言った方がいいかもしれない。
「この時期に異動なんて、急ですね」
「どうしても必要らしいから。でも、それにしたって急だよなぁ」
 彼は異動になった。この校舎には教師としてもう通わない。
 私の通う高校はキャンパスが二つある。来週の半ば以降から、そのうち一方のキャンパスに先生は移ることになった。
 向こうの英語の教員が入院したらしい。先生は英語の担当で、担任も持っていなかったし、部活の顧問もやっていなかったから、白羽の矢が立ったのだった。
「千早の歌も暫く聴けないな」
 暫く、と軽く含みを持たせて、先生は腰を上げた。
「異動の準備、しなきゃ」
 そう言って、彼は階段を降りて行った。
 彼の姿が見えなくなって、暫く経ってから私は目を閉じて考えた。
 今の気分は――エマーソン・レイク・アンド・パーマー、展覧会の絵より、"賢人"。
 グレッグ・レイクのアコースティックギターの爪弾きが、私の耳を内側からくすぐる。
 私は彼のように歌えない。私は歌い始める。
 先生、聴こえますか。私の声は、職員室に筒抜けているんでしょう。優にも、先生にも、誰にも、私の声が届かなくなったりしたら、私の歌は跡形もなく消え去ってしまうかもしれません。
 歌っている間はオーディションのことを忘れた。



 先生より先に、お母さんに電話した。
 ――アイドル……千早が?
 お母さんはちょっと驚いたように言って、それから嬉しそうに。
「オーディションの合格のお祝いしなきゃね」
 今度の日曜日にこっちで夕飯を食べよう、と提案してくれた。私は素直に、ありがとうとその提案を受けた。
 お母さんと先生だけに報告すると決めていた。お父さんは止めにした。まずお母さんに連絡先を訊き、電話して、報告するのはちょっと私には荷が重すぎた。
 もっと余裕が出来てからでも構わないだろう。そして優に報告するのも。
 私は他の教員から訊いておいた。"先生"の電話番号を押した。
 コール音は中々途切れなかった。落ち着かなかった。
 やがて、コール音が切れたが、先生ではなく、無機質な女性の声が電話を取った。

 ――ただいま、留守にしております。ピーという発振音が鳴りましたらお名前と御用件をお話し下さい。

「……先生、私、色んなオーディション受けました。レベル、足りなかったんですかね。殆ど落ちたんですけど、一つだけ、迎えたいって熱烈に言ってくれる事務所があって。と言っても、歌手じゃなくって……アイドルとして」
 私は妙にすっきりした気分で、続きを話した。私の将来だった。ようやく現れた目標だった。
「捨てる神あれば、拾う神あり……何かの縁と思って、私、そこに行ってみようと思うんです」
 歌手として失格の烙印を押されても、歌が歌えるなら、アイドルも悪くないかもしれない。
 私は一つ、息を吸った。歌を歌う前のように。
 先生の拍手の残響が、耳に浮かんできたから。


「先生、ありがとうございました」


 ――メッセージの再生を終了します。

 ぴっ、ぴっ、と部屋に電子音が響く。空虚で温かな無機的な音、ガイダンスにしたがって、操作する。ぴー、と間延びした音の後。

 ――メッセージを削除しました。

 "先生"は静かに笑った。

「次、千早の歌を聴くのはどこだろう。ラジオかテレビか……また同じように聴けるかもしれないな」
 彼の部屋の隅でCDプレーヤーが鳴っていた。展覧会の絵、プロムナード。
 ムソルグスキー、とぎこちなく呟いて、彼はプレーヤーの電源を切った。