「君の目はぱっちりしていていいね」
 初対面、彼は春香の顔をまじまじと見て、頷いた。
「だが、僕の目も捨てたもんじゃないだろ」
 切れ長の目を細めてにやりと笑った。
「ええ、カッコイイ目だと思いますよ」
 つられて笑って、春香が負けじと顔を見返してやると彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「本当は僕もぱっちりした目が良かったんだが……バランスが悪いかな」
 挨拶もそこそこに、春香と新しいプロデューサー、小鳥、それから律子の方へ、社長は向き直った。
「彼のことだが、少し話さなければならないことがある」
「……僕から、話しましょうか?」
「いや、私から話す」
 社長は無表情の中に寂しげな香りを漂わせて、彼を遮った。
「彼には記憶障害がある。長期記憶が定着しにくいんだ」
「……それって、大丈夫なんですか?」
 春香はつい、と言った様子で疑問を投げた。そして、はっとしたようにプロデューサーの方を見たが、彼はうっすらと笑ってすらいた。
「我々でフォローしつつ、ね。もとは優秀なプロデューサーだから、手腕は期待してもらっていいだろう」
 小鳥さんが彼を事務机の方へ連れて行った。春香は律子と一緒にスタジオへ。
「本当に大丈夫なんですかね?」
「やってみなくちゃ分からないでしょう。記憶障害がどの程度なのか……あんまり詳しく話してくれなかったわね。社長も話しづらそうにしてたし」
「そうですね」
 スニーカーがぬるいコンクリートを踏みつける。五月雨はまだやってこない。

 翌朝、朝の挨拶を交わした後、プロデューサーは記憶の穴あきを春香に晒した。
「君の目はぱっちりしていていいね」
 春香が少しばかりの混乱を落ち着かせようとしている間に、彼は切れ長の目を細めてにやりと笑った。
「だが、僕の目も捨てたもんじゃないだろ」
「……は、はい」
 春香の困惑した様子に、彼はしまった、という顔をした。
「いや、僕の目は……あは、まぁ、いいか。ごめんね」
 彼はふう、と一つ溜息をついた。春香には、彼が傷だらけのような気がした。
 ポケットからメモ帳を取り出して、何やら何度か頷いた後、彼は春香の方へ向き直った。
「天海、春香……」
「え、ええ。天海春香です」
「天海春香。目がぱっちり」
 彼はメモ帳にさらさらとボールペンで書きこんで、よし、と自分のデスクに座った。
 そして、お茶を運んできた小鳥のことを秋月律子さん、と呼んで、訂正された。
「音無小鳥さん。カチューシャが素敵」
「うふふっ、素敵だなんて。上手いですねぇプロデューサーさん」
 あのメモ帳には何人の名前が書きこまれているのだろう。そして、何人も忘れられているのだろうか。彼の記憶の穴からこぼれいていくのだろうか。
「天海春香。目がぱっちり」
 春香は呟いて、くるりと踵を返した。今日はまたスタジオでレッスンだ。

 プロデューサーの仕事ぶりは優秀と言ってよかった。
 記憶が危ういというハンデさえなければ、もっと重要な仕事を任せられるのに。そう思うのは高木社長だけじゃなかった。
「プロデューサーさん、ヘッドハンティングの話が来たって」
「あ、ああ……そうですね。結構大きいところでしたけど」
「ぶっちゃけ、どうですか? うちと比べて」
「条件は確かに良かったですけどね。でも僕はほら……」
 彼は自分の頭を指して、舌をぺろっと出した。彼の記憶に空いた穴は誰にも把握できない。
「それにしたって、プロデューサーさんがうちに来てから随分お仕事増えたし……」
「いつまでもちますかね」
 プロデューサーはメモ帳を捲った。忘れちゃいけないことは、全部そこに。仕事用のスケジュールが書かれているのは、別のもう一冊の手帳だ。
 彼にとって重要なのは、どっちだろう。

 一日中、雨がばしゃばしゃと跳ねかえっていた。
 夜になると、街灯が雨粒の一つ一つをキラキラと反射させていた。塗られたように真っ黒いコンクリートを、星空のように飾っている。空は分厚く雨雲が覆っている。
「天海春香、遅いな」
 プロデューサーはメモ帳を捲った。天海春香、目がぱっちり。
 彼は一晩寝れば、その日のことをほとんど忘れる。覚えていてもぼんやりとしている。記憶が定着しないのだ。
「哀しいなぁ」
 独り、芝居がかったように言った。彼は今事務所に一人でいる。入社したてから、今までの彼を見て、小鳥さんや社長は彼に留守を頼んでも大丈夫だと判断した。
 彼の携帯が鳴った。画面には『天海春香(目がぱっちり)』。
「もしもし、天海春香。どうかしたの」
「どうしたもこうしたもないですよぅ。迎えがないと私濡れ鼠ですよ?」
 春香はあはは、と笑った。電話を介してではくぐもったような声だけがプロデューサーに届く。だが、確実に困っていただろう。彼を非難したい気持ちだって、あるのかもしれない。
「ご、ごめんっ。うわ……いや……これは凡ミスだ。すぐ迎えに行く」
 彼は上着と傘と車の鍵を取って、駆けだした。漸く人の居なくなった事務所。その冷たく澄んだ無音に溶ける雨音たちを、一体誰が盗み聞きできただろう。
「ごめん。凡ミスなんだ。本当に忘れていた。俺のせいだ……」
 ブツブツと言いながら、彼は道を歩いた。春香と並んで、一つの傘の下で。
「いや、人間誰でも……ありますよ! そういうことって」
 春香は努めて明るい表情をした。迎えを忘れられたのは確かに、この雨だから頭にきた。それを態度に出すほど春香は尖がった人間ではなかったし、街灯の白銀色を見ながら待つうちそんな気持ちも冷めた。
「ごめんな。春香」
 もういいですよ。私、怒ってませんから。
 春香の声は雨景色に呑まれた。

 朝、プロデューサーは挨拶もそこそこに春香に頭を下げた。
「天海春香、本当にすみませんでした」
「ええっ、ちょっと、プロデューサーさん」
「悪かったと思ってます」
 三度、頭を上げてください、と言われて、漸く彼は下げた頭を元の高さへ戻した。
「許してくれるかい?」
「当たり前ですよ。元々、そんなに気にしてませんでしたから」
「……ちょっとは気にしてた?」
 春香は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「えへ、正直少しは。でも、少しだけですよ?」
「そっか」
 それから彼はいつものように仕事用の手帳を開いた。
「今日はレッスンと、午後から写真撮影の撮り直しがいくつか……あるらしい。先週か?」
「はい、先週のところだと思います。すぐ終わりますかね?」
「手こずらなきゃ、多分すぐ終わるんじゃないかな。よろしく頼んだよ」
「はい。プロデューサーさん、送ってもらえますよね?」
「ああ、うん」
「じゃあ、午後に」
 春香は記憶に穴のある彼を上手くフォローしていた。毎朝、二人でその日のスケジュールを確認し、手帳に書きこまれただけではカバーしきれなかった過去の事物を、春香が一々挙げていく。
 彼は春香のこうした気遣いを覚えているだろうか。
 一晩経てばその日のほとんどを忘れてしまう彼の脳は、春香を覚えているのだろうか。

 午後一時半、食事を終えて、一息ついて、ちょうど眠くなる頃合。
 今日の業務の残りは春香を送るだけだ。ちなみに彼には事務仕事はほとんど任されない。彼には荷が重すぎるから。
 小鳥も、律子もデスクを空にしていた。備品の買い出しやらレッスンの付き添いやらで、留守だ。
 プロデューサーは一つ、伸びをしてデスクを立った。出なければならない時刻まで、一時間近くある。仕事がなく、外に出るわけにもいかない。
 ソファーに座り、身体を段々と横に崩して、窓から差し込む陽光にとろとろと意識を預け、いつしか彼は眠ってしまった。
 彼が眠り始めてから三十分程経った頃、春香が事務所に帰ってきた。
「プロデューサーさん、寝てるんですか?」
 見れば分かるか、と春香は可笑しくなった。
 いつも時間を潰す時に座っているソファーが占拠されているから、春香は暫く部屋をうろうろした後、プロデューサーのデスクに腰を落ち着けた。
「しょうがない人だなぁ」
 いびきをかく彼を見て微笑まずに居られなかった。春香はデスクの上に肘をついて、ぼんやりと宙を眺めた。
 それに飽きると春香は、偶々目に入ったデスクの上の彼のメモ帳を何気なく手に取った。
 躊躇うのもそこそこに、ぺらりと捲った。最初のページから、春香の知らない名前がずらりと並んでいた。名前の横にそれぞれの特徴が書かれていた。
 『八重歯がお茶目』、『目が僕に似ている』、『声がハスキー』。
 あんまり、見るのもどうかと、さっさとページを捲っていく。自分がどんな風に書かれているか、ちょっとだけ気になったのだ。
 『目がぱっちり』以外に、何か書かれていないか気になっただけ。
 果たして、白紙の場所までたどり着き、数ページ戻した場所に春香は居た。
 『天海春香、目がぱっちり』。それの上には小鳥や社長、律子の名前もあった。ただ一つ、春香の名前の下に、赤いペンで書き加えられていた。
 『春香に謝ること』。
 春香は哀しくなった。改めて彼の記憶がもはや何も残してくれないことを、痛感した。
 彼は覚えているのだろうか。何故、春香に謝るか。
 今朝彼は謝ってくれた。それを、覚えているのだろうか。明日の朝、彼はもう一度頭を下げるのではないか。このメモを見て、訳も分からず、頭を下げるのではないか。
 何故、このメモに何か完了の印を残さなかったのか。
 春香は哀しい頭で考えた。
 このメモを完了させたら、きっと自分への謝罪の気持ちも忘れてしまう。そう、考えているのかもしれない。それは哀しかった。
 忘れないために、訳も分からず謝り続けるなんて哀しかった。
 春香はデスクに転がったペンを一つ取って、二重線を引いた。そして、二重線を引いた『春香に謝ること』の横に『済』と目立つよう書いた。
 それで、春香はメモ帳を閉じた。何処か満足したような笑みを浮かべて。
 デスクから腰を上げて、ソファーに寝る彼の肩を揺すった。
「プロデューサーさん、起きてください」
 ごめんじゃなくてありがとうと、いつの日か彼は言ってくれるのだろうか。
 彼の無秩序に穴のあいたフィルムのような記憶の一コマに、天海春香を映してくれるのだろうか。
 あいた穴を埋めるような、あなたの思い出になりたい。
 瀕死の状態から息を吹き返したように、プロデューサーはゆっくりと起き上がった。
「……ありがとう、起こしてくれて」
「どういたしまして。さ、行きましょう」
 彼と一緒に事務所を出ると、柔かい風が春香の耳を通り抜けて行った。