彼以外はみんな同じ色の服を着ていた。式は淡々としたもので、一人一人花を入れ、棺に釘が打たれた後は早く、我に返った時には彼は骨壺の中へ納められた。
 その間、私はどうしていたのか。曖昧な記憶が陽炎になって揺らめいているようだった。
 会場のベンチに座って、一日溜めこんだ溜息を吐き出す。今まで感じたことのないくらいナーバスだった。
「律子さん」
 ふと、右手に重ねられた手に気付く。見ると、小鳥さんが同じベンチの隣に座っていた。
「すみません。私ったら」
 少し身体を横にずらして、小鳥さんの座る場所を広く空けた。ついでに手も払った。
「……早かったですね」
 小鳥さんは払われた手を膝の辺りに引っ込めて、端然と言った。
「早かったですね」
「若いから進行が早かったみたいですし、仕方ないと言えば……」
 一つ、小さく溜息を吐いて。
「仕方なかったのかもしれませんね」
 風が一つ冷たく私たちの傍を横切った。周りの木がかさかさとざわめいた。すすり泣くように。
「小鳥さんは、なんでそんなに落ち着いてるんですか」
「落ち着いてますか?」
 小鳥さんは寂しそうに笑った。
「すみません。……怒っているわけじゃないんです。むしろ、羨ましいくらいで」
「律子さんと私はたった十歳くらいしか違いませんけど」
 十年前、私は九歳。小鳥さんは今の私と同い年くらいだろうか。
「段々、次、次って……切り替えられるようになりますよ。律子さんの場合、難しいかも知れませんけど」
「小鳥さんの言う次って」
「少ししたら新しいプロデューサーさんを雇って空けた仕事の穴を補填しなきゃ……とかね」
 プロデューサーは、と言いかけて止める。私ももういい大人だ。
「そうして、今が薄れていくんですね」
 皮肉っぽく非難がましい口調になるのだって、本当は抑えつけなきゃいけないはずだった。私がいい大人なら。
 小鳥さんはちょっと困ったような顔をした。私は、話題を変える。
「美希、来週からは来ますよね」
 美希は葬儀に来なかった。日時を伝えるのも躊躇うくらい、ショックを受けていたから当然と言えば当然かもしれない。
 小鳥さんの返事より先に、つい恨み言が出てしまう。
「私だって、本当は出たくなかったわよ」
 これでもかと深い溜息をついて、一つ舌打ちをする。小鳥さんは何も言わなかった。哀しいのは私だけじゃないし、美希だけじゃない。小鳥さんだって哀しいのを忘れて、無遠慮な振る舞いをした。
 引っ叩かれたって、文句言えないな。今度は、自分への冷えた溜息と舌打ちを一つ。
 謝るのも卑怯な気がして、それきり私は口を噤んだ。
「律子さん、そろそろ行きましょう」
 小鳥さんは立ち上がって、言った。
 いつの間にか、雪が降り始めているのだった。恐ろしいくらい静かで、世界が凍り始めたんじゃないかと思った。
 私は立ち上がって、小鳥さんと並んで元の生活へ足を運んだ。
 ――元の生活?
 私は急に哀しくなった。見ないように、聴こえないように、避け続けていた胸の内の空虚さがこれから向かう、元の生活だった。
 頭の内側が、ひやり、とした。と思うと、世界がぐにゃりと均衡を失った。
 足を止めて、その場にうずくまる。数歩先で、小鳥さんが心配そうに振り返って、慌ててこちらに駆けてきた。
「大丈夫ですか?」
「……ごめんなさい」
 肩を借りて、よろよろと立ち上がる。
 なるべく、考えないことだ。彼のことは早々に忘れた方がいい。
「……ありがとうございます。さ、行きましょう」
 小鳥さんに向かって、無理やり笑顔を作って見せた。にっ、と口を歪めても、小鳥さんは笑ってくれなかった。


 大切な人がいなくなってから、時間は止まるどころか焦るくらいに慌ただしく過ぎていった。却って良かった。プロデューサーのことを想い出す暇もない。
 一週間、二週間、忙しすぎる日々を息切れしながら突っ走った。頭は空っぽ。そうして、ようやく落ち着き始めた頃、小鳥さんの呟いた言葉は私には刺激が強かった。
「新しいプロデューサーさんのこと、そろそろ考えとかないといけませんね」
「新しい……」
 せっかく空っぽにした頭に、元の生活が入りこんできた。
 事務所に全員――一人を除いてだが――全員揃ったのを見計らって、小鳥さんが提案を述べた。
 新しいプロデューサーを雇い入れよう。
 新しいプロデューサーを雇うことに誰も反対はしなかったが、賛成もしなかった。
「まだ、いいんじゃないかしら」
 そう言ったのは伊織だった。
 しん、と、気まずい沈黙を破って、先延ばしを要求した伊織に、誰もがほっとした様子だった。私でさえ。
 それからみんなが帰って、二人きりで事務仕事を片付けていた。二人きりだ。思わず溜息が出る。
「まだ、早かったですかね」
「そうですね。せめて、美希が帰ってきてから……」
 ふと、手が止まった。美希は帰ってくるのだろうか。かれこれ一か月近く、自宅に引きこもったままだ。学校にも行っていないらしい。
 無理もない、と思う一方、仕事をしている私がなんだか薄情者のようにも思えてくる。
「頑張りましょうね」
 小鳥さんが隣のデスクから私を覗いている。溜息を飲み込んで、頷いた。
「……ええ、頑張りましょう」
 ――疲れたな。
 残業は一つの楽しみでもあったのに、今では何もない。空っぽの時間、空っぽの頭、空っぽのデスク。
 一日ごとに今が褪せていくような気がした。同時に、プロデューサーとの記憶が鮮やか過ぎるくらいに目の前を横切っていく。
「頑張ろう、頑張ろう……」
 今日もまた、言い聞かせるように呟いていると、電話が鳴った。
「はい、こちら765プロ」
 律子、と無機質な声が受話器から届いた。美希の声だって、すぐには分からなかった。
「美希っ、今までなに……」
「ミキ、辞める」
 きっぱりとした言い方だった。あっけに取られているうち、通話が切られた。つーつー、とまぬけな音に暫く耳を傾けていた。
「律子さん、今の」
「美希です。……辞めるって」
 私は受話器を置いて、携帯と財布をポケットにねじ込んだ。
「律子さん、何処へ?」
 デスクを立った私を、小鳥さんは寂しそうに見ていた。決まってるでしょう、って言いたかった。
「美希のとこです」
 足早に、事務所を出た。


 美希の家の玄関に私は佇んでいた。
 私は美希になんて声をかけるべきなんだろう。インターホンを押す直前に躊躇ってしまった。
 美希からの電話を受けてここへ真っ先に来たのは、多分間違いじゃなかった。けど、正しい答えを出すには至ってなかった。
 迷っているうち、背後からかつかつと靴音が近付いた。あんまり部屋の前でまごついているのも変か。私はインターホンを押した。部屋の中で軽い音が鳴るのを聴いた。
「美希、居るんでしょう」
 返事はなかった。平日の白昼だったから、多分、家には美希だけだろう。私はもう一度インターホンを押して、ついでにノックもしてやった。
「美希……起きてる? 律子だけど」
 やがて、かちゃりとドアが開いた。おずおずと。隙間から覗いた美希の目は暗く、沈んでいるように見えた。
「……律子」
 美希の精気のない表情に、敬称の付け忘れを注意するのも忘れてしまった。
「美希、さっきの電話だけど……」
「ああ、うん……辞める」
「ねぇ、美希。私ね、思うんだけど、今すぐじゃなくてもいいから、美希はアイドル辞めないで……」
 美希は静かに首を振った。
「ハニーの代わりなんて、ないもん」そっと、ドアを少し閉じた。「もう帰って」
 がちゃり、ばたんという具合だった。
「……甘ったれないでよ」
 甘ったれているのは、誰だろう。私は事務所へ帰った。
 誰もかれもが私を落ち着かない様子で見た。私は肩をすくめることで、それに応えた。
「時間が解決してくれるんですかね」
 小鳥さんの独り言のようなその呟きは、美希のことを言っていたに違いない。それなのに、私は私自身を見た。
 私自身が時間で解決できるような感情を抱いていないように、美希だってきっと同じだった。
 奥歯が軋んだ。

 かち、かちと時計の声が小うるさく独りぼっちの事務所に響いた。
 みんなが帰った後も、何となく私は事務所に残った。事務仕事を片付けると、もうほとんどやることはなくて、それでも居残った。いつの間にか時刻は九時を回っていた。外は墨汁のような闇に沈み、重々しく染められていて、私のいる灯りのついたこの一室だけが世界から浮いているようだった。
「せめて、あなたが傍にいれば」
 彼のデスクの上には小さな写真立てと花瓶と、花瓶の中に笑う水仙の花。何となく、彼の席に座ってみる。微かに揺れた水仙の花弁を指で突くと、香りがすっと私の鼻をあまやかにくすぐった。
 水仙の香りと一緒に、彼との記憶を嗅ぎだしてみる。
 もはや埃を被った思い出の一つ一つを丁寧に取り出して、私の周囲に広げていく。何でもないこと、楽しかったこと、怒ったこと、おせっかいを焼いたり、焼かれたり。数個の嫌なことすら今や美しい思い出で、私をノスタルジアの地平へと奪い取っていった。
 哀しいことは多すぎた。そして、思い出ではなかった。
 ――みんなのこと。特にさ、美希のこと頼むよ。
 弱弱しく笑った彼に、私は『そんなこと言ってないで、早く治してください』なんて言った。それは、もう半分くらい死んでしまっている彼に対しての強がりだったのか、それとも私自身への強がりだったのか。
 鼻の奥がつん、とした。びっくりした。
 ここのところ、泣くこともなかった。思い返せば、彼が亡くなってから、一度も泣いていない。ただ、茫然としていたという印象だ。
 びっくりした私は慌てて顔を上に向けた。勢い込んで上体がのけぞり、危うく椅子ごと後ろに倒れ込むところを、私はデスクの引き出しを咄嗟に掴むことで回避した。
 掴んだところで、引き出しががらりと開くのではと一瞬ヒヤリとしたが、幸い、引き出しには鍵がかかっていた。がちり、と私を支えた。
 やっと身体を起こして、心臓も落ち着いて、涙も引っ込んだ頃、私はその引き出しが妙に気になった。
 引き出しには何が入っているのだろう。がちゃがちゃと引っ張ってみると、中でかさかさと音がした。
 さては恥ずかしい雑誌でも入れていたのかな。にやり、とした後、私は溜息をついた。
「死人に口なし。見せてもらいますよ」
 デスクの規格は私のものと一緒だ。多分、私のデスクの引き出しの鍵でも、開くだろう。鍵を差し込んで回すと、果たして、鍵は開いた。がちゃり、と歓迎するような金具の音。
 このちょっとした冒険に手放しで喜ぶほど、私は子供じゃない。少し後悔もあった。
 開けるべきではなかったかもしれない。
 恐る恐る、引き出しを引いてみる。中には少し埃のついた茶封筒が気持ちよさそうに寝ていた。
 ぱっぱっと軽く埃を払ってから、取り出した。茶封筒の封を開けて、中身をあらためる。
 私は息を呑んだ。
 ――『プロジェクトフェアリー』。
 震える手で、捲った。ワープロの印字の隙間のところどころに、彼の手書きの文字が居座っていた。その企画書は生きていた。彼は生きていた。
 プロジェクトフェアリー。彼の生きた声が存在していた。
 茶封筒にしまいこむのも忘れて、私はその企画書の束を胸に事務所を走り出た。
 私が走るのと同じように、ぬるい涙が目から頬へ走った。
 休みなく走り続けていた私に、交差点の赤信号が休憩を与えた。すっかり途切れ途切れになった呼吸。少しずつ落ち着かせようと努力している間も、涙があふれて止まらなかった。今まで流すのを忘れた分、今この瞬間にすべて流し出すかのように止まらなかった。何台かの車が交差点を縫って行った。世界は私をどんな風に観ているのだろう。
 信号が変わると、私はまた走った。
「美希!」
 ひたむきに走って、体感では一分もしないうち、美希の家の前へ来た。
 私は夜中だっていうのも構わず、彼女の家のドアを叩いた。また、涙が出てきた。
「忘れなくても良い。ひとりで寂しい、って……そう思うのに飽きたら、そこから出てきなさい」
 扉一枚隔てた、人の気配に私は小さく叫んだ。
「美希と、私と、みんなで。寂しいって思おう。あの人のことを忘れないように」
 記憶の全てを消し去ることができたとして、それはもう私ではないと思う。
「あの人の夢……。私と、美希。事務所のみんなで、代わりに叶えてあげない? みんなとなら、きっと代わりになれるから」
 かちり、とドアが揺れた。


 宇宙の果てまで透き通すような水色に、ぷかりと浮雲が一つ。
「あなたに会いに来るだけなのに、随分時間かかっちゃいましたよ」
 私の頬を仄かに香る煙が撫でた。まだ寒かった。けど、何となく暖かいような気もした。
「また、ここに来ますね。今度はみんなも連れて」
 くるりと彼に背を向けた。それは、涙を見せたくないからかもしれない。
「あ、それと。当分、あなたに逢いに行く予定はありませんから」

 いつか、逢えたら。
 涙が出るのは、きっと私だけじゃない。
 あなたの事を忘れるなんて、ありえないから。

 これからもずっと。
 あなたと過ごした日々、あなたの優しさ。

 また、いつか逢えた時は、よく頑張ったな、って褒めてくれますよね。

 ずっと頑張ります。
 みんなに迷惑ばかり掛けた、みっともない自分を、思い出せなくなるその日まで。

「さようなら。プロデューサー」


律子「思い出せなくなるその日まで」 Fin