Dram@s


 ショートフィルムという意味でのSF。





     5





     4





     3





     2





     1




『チェリーガール・マテリアリズム』



「私、死ぬんだね」
 病室の白い空気がぴんと張った。彼は曖昧に首を振るのも忘れて、静かに頷いた。
「律子は死ぬ」
 彼の目先にあるお下げ髪が揺れた。彼が病室に出向くと、律子は必ず髪を三つ編みにしている。普段は面倒だから解いたままだが、彼が来るときはちゃんと結うのだそうだ。
「そうなるとは思ってたけど」
 人は、いや、生き物はいずれ死ぬ。悟ったようなことを言って、律子の、自分の気が楽になるなら、いくらだって言うのに。彼は悲しげにぐるりと部屋を見回した。そして窓際で目に留まった、慎ましやかに笑う白い花を指差した。
「あれは、律子のお父さんが」
「いい、って言ったんだけどね。飾ってみると、綺麗だし……悪くないでしょ?」
 笑った律子の頬は肉が落ちていて、かつての豊頬の面影もなく痛々しく痩せていた。腕はまるで枝のように細く、それは他の部位もそうだった。律子は随分と変わってしまっていた。今も変わらないのは、彼女の身体から立ち上る少女の薫りくらいだ。律子の全ては衰え、蝕まれて、生命の火が恐ろしげに揺らめいていた。
 律子の容態を彼に逐一知らせてくれていたのは、彼女の父だった。辛い役目だったろう。昨晩は直接、律子の容態を教えてくれた。
 あと二週間。白い廊下で、彼女の父は重い溜息をついた。
 二週間、と聞いて、彼の心臓は凍った。凍った心臓から吐き出される血は冷たく、血管を走り、全身からどっと汗を噴かせた。
 彼はそうですか、と呟いて、その日の夜は律子に会わずに家へ帰った。
 残り時間、二週間。どこかふわふわとした気持ちで帰路を歩んで、その二週間に現実味を感じられなくて、その夜の彼は久しぶりに良く眠った。
 すっきりとした目覚めのあと、カレンダーを眺めると否応なくこの先の二週間が意識された。二週間は長いのか短いのかよく分からなかった。彼は今日もいつも通り、のろのろと一日を過ごして、夜には病室へと入った。
「死ぬまでにしたいこと、書いておくんだ」
 律子は枕元のメモ帳を手に取って、ぺらぺらと捲った。白地に薄い緑色の葉っぱの模様が可愛らしい表紙が、彼の方を向く。
 死、という響きに彼は身震いした。
「なんて書いたの」
 彼はリアリティのない恐怖を振りほどこうと、努めて明るい口調で尋ねた。覗き込むと、律子は悪戯っぽく笑ってメモ帳を隠した。
「ダメよ」
「どうして」
「恥ずかしいもん」
 くつくつと笑う律子に合わせて笑ってみても、どこかぎこちない。残りの二週間で、そのメモに書き連ねられたであろう祈りを叶えてあげられるだろうか。
「でも、本当にしたいことは書かなくても忘れないんだろうね。きっと」
「そう思うならどうして書くんだ?」
「書くと、想像で行った気分になれるから」
「じゃあしたいことじゃなくて、すでにしたことを書いたようなものだな」
「その通りですね、先生」
 律子はおどけて見せた。律子の吐く息一つ一つが死という舞台を隠す垂れ幕に感じられて、彼は喉の奥に冷たさを感じた。
 彼は静かに数歩進んで、窓に寄り添った。白の壁と、木の枠と、アルミのサッシを指で順番に撫でる。そして喉の奥の冷たさを飲み込んだ。
「プラネタリウムに行こうか」
 律子は頷いた。
「いいね。プラネタリウム」
 デート、と言えるものだったかは分からない。彼と律子は二人で、丘の上にあるプラネタリウムに星を――偽物の星空を――覗きに出かけた。
 プラネタリウムの話を出すと、病室はしんとした。律子と彼は、それぞれにその記憶に光る――偽物ではない――本物の星を思い浮かべていた。
 あの時、二人ともプラネタリウムのホールを出た後に「綺麗だったね」と感想を言い合ったものの、実は暗闇を伝う互いの体温に心を奪われてプラネタリウムどころではなかった。その熱を冷ますように溜息を吐いてから外に出ると、濃い青と黒のなだらかなグラデーションの空に、ぱらぱらと砂のように光が煌めいていた。そうして、律子と彼は顔を見合わせて笑った。こっちの方が綺麗だね。
 律子はいつにしましょう、とメモ帳をしまって、今度はスケジュール帳を取り出した。そのシンプルなスケジュール帳は、彼がプレゼントしたものだった。入院してから、開く機会は何度あったのだろうか。彼はその黒塗りの表紙をじっと見つめた。
「来週……いや、今週でいいかな」
「うん」
「じゃあ、三日後とか」
「大丈夫だと思う」
 何やらさらさらと書きこんで、律子はスケジュール帳をぱたんと閉じた。
 彼は喉まで出かかった溜息を飲み込むのに苦労した。来週、もしかしたら律子はいないかもしれない。純粋に怖かった。
「今日はもう疲れたろ」
「そんなことない。もっとお話、しようよ」
 彼は少し迷った後、ベッドの傍の椅子に座った。律子との共通の話題なんて、病院のことと、律子の病気と、一年前まで遡るありがちなデートの記憶達だけだ。
「プラネタリウムには、何時くらいに出ようか」
「あそこ、街から随分離れてるから星が綺麗だった。また、夕方に行こうよ」
 彼は頷いた。そして律子の手をそっと握った。以前、律子と手を繋いで道を歩いたときは、この手はどんな風だったか、どんな暖かさを持っていて、どんな柔かさを持っていたかよく覚えている。
 力を入れたらひび割れそうな、こわれもののような手はまだしっとりと体温を持っていた。
「眠るまで傍に居て」
 律子は彼の手をきゅっと握った。
「寝るなら、電気を消さないと」
「いいの」
 律子は彼の手にしがみついていた。目はじっと開いていて、どこか遠いところを見ていた。
 電灯が時々じじじ、と音を立てた。
 静かな夜だった。耳を澄ますと、遠くで、近くで、風の吹く音がした。


 夕陽が暖かく病棟を濡らしていた。デートの待ち合わせ場所は、病院だった。それは必然的に、暗黙に、既にされていた約束だった。半年前に漸く取った免許を駆使して、彼は車を走らせてやって来た。
 助手席に乗り込んだ律子はつい、心配そうに言った。
「あの、大丈夫だよね……?」
 彼の不器用なことは律子は良く知っていた。彼が律子のためにりんごを剥こうとして、親指に三回刃を突いてりんごをさらに赤くしたのは、いつのことだったか。結局、律子が二人分剥いてやった。しょんぼりとりんごに噛みつく彼を、何て言って慰めたか。
「大丈夫。多分。一蓮托生だ」
「全然、大丈夫っぽくないんだけど」
 くすりと笑う律子と抜け落ちたような表情の彼を腹に隠して、鋼鉄の馬車は偽物の空めがけて走り出した。
 彼の緊張した雰囲気を察してか、律子は助手席でじっと座って何も話さないでいた。話しかけたら、何か決定的なバランスが崩れるんじゃないかと思うくらいに、彼は真剣にハンドルを握っていた。真新しいカーステレオも、じっと静かにしていた。そういえば、彼と律子は音楽の趣味が合わなかった。
 市街を出て、暫く走っていくと、丘の上に白い天文台が見えた。まるで猫の背中に座る、子供の海亀のようだった。車を駐車場に停めてから、彼と律子は建物へ入って行った。
「変わりないね、あんまり」
 彼がチケットを買っている間、律子はずっと内装をきょろきょろと見回していた。
「安心した?」
 彼の差し出したチケットを受け取って、律子はうっすらと笑った。
「うん。星は永遠に変わりない方がいいわね」
 彼が律子の言った意味を考えているうちに、律子は彼の手を引いた。プラネタリウムのホールの入口まで歩いて行くと、律子は案内人にチケットを渡した。彼もそれに倣う。
「さっきの、テキトーに言ったから」入ってすぐ、思い出したように律子は振り返った。「あんまり、深く考えないでね」
 入って右の方の席に律子は腰を落ち着けた。彼はその左隣に座る。
 律子は興味津々といった様子でプラネタリウムの映写機を見つめていた。以前も同じように、あのロマンあふれるごつい機械を見つめていた気がする。
 橙色のライトがほんのりと明るいホールに、じわじわと人が増え始めた。席は六割方ほど埋まり、人々の囁き声がさざなみのように寄せては返す。
「ねぇ、春の星座分かる?」
「いや……僕は星座はオリオン座とさそり座しか知らない。律子は?」
「ちゃんと見たことはないけど、蟹座とか北斗七星とか、あと星座じゃないけどスピカとか」
 それから沼に住む化け蟹がいかにして星座になったか、律子は話し始めた。
 友人のヒュドラを助けるため飛び出してヘラクレスの足を挟んだが、気付かぬうちに踏みつぶされてあっけなく死んだ化け蟹。
 十二星座の神話の中で一番カッコ悪いよね、と律子は何故だか嬉しそうに笑った。
「その勇気と、友情を認められて星になったんだって」
 律子は美しく滑稽な化け蟹に親しみと尊敬を覚えているようだった。
 彼が返事をする前に、ふっと灯りが消えた。ざわめきが止んで、しんと冷たい水面のような緊張がホールの中を覆った。
 暗闇の中で、進行役の声がスピーカーを通して響いた。
 天井の偽の空に、まず夕方の風景が映し出された。暗闇がじわりと薄れて、市街の空とガラクタのような建物たちが見える。
 進行役のもったいぶった話し口と、テンポの良いこなれた解説が妙に期待を煽った。
「街の灯りがどんなに星を見づらくしているか、見ていただきたいと思います」
 夕陽が地平、もといスクリーンの外に落ちて、春の夜空が映し出される。ぱらぱらと星は見えるものの、いつも見ている空と変わりなかった。
 そういえば、まだ外は夕方で、今しがたスクリーンの外に落ちた夕陽も空に居るはずだった。何だか未来に来たみたいだ、と彼は律子に話しかけたくなったが、止めにした。
「街の灯りが消えたら、星はどのように輝くのでしょうか」
 進行役の言葉の後、ふっと地平の人工の光が消えて、夜空に――これも人工の光だが――沢山の星たちが姿を現した。わあ、と人々の歓声が夜空に跳ねかえした。
 その歓声に、記憶が無理やりに引きずり出される。その記憶は彼を取り巻いて、彼自身に覆いかぶさった。
 彼はこの暗闇に律子を右にして身を置いている。沢山穴の空いた黒い画用紙で光を遮ったような空。暗闇にうっすらと浮かぶ、ごつい機械。息を呑む観客。律子の匂い。
 何もかもが一緒だった。
 星空はゆっくりと回転して、進行役が星座の一つ一つの形を解説していった。
 彼は苦しげに、哀しげにじっと空を見た。記憶のプールの中に一人取り残されたような、奇怪な不安感が胸の辺りを圧迫した。
 分離した暗闇と夜空。その底に沈み、閉じ込められた彼は隣の律子のことをじっと思い出した。
 彼と律子の出会いは一年ほど前だった。当時、律子は書店でアルバイトをしていた。律子の打つレジに、高校生向けの英語の文法書をどしりと置いたのが彼だった。
 彼が何度か通ううちに、二人は顔見知りになり、あるとき連絡先を交換して、連絡を取り合い、自然と――自然だと言って良いものか分からないが――恋人になったのだった。
 付き合い始めて暫くしてから律子の病気が発覚して、彼はひどくショックを受けた。
「治らないんだって。死ぬのかな? 私」
 けろっとした顔で言った律子の前で、彼は泣いた。めそめそしないでよ、と律子は困ったように言った。
 白いベッドに寝る律子の傍で笑うとき、彼は"イフ"に悩まされた。
 もし、自分が律子の恋人じゃなくて、他の誰かが律子の恋人だったなら。自分は今何処で笑っていただろう。こんな悲しい微笑を、しなくて済んだかもしれない。自分が違う誰かだったなら、あるいは病気にかかったのが律子でなく他の誰かだったなら。今の感情はきっと、地球の裏側より遠くにあるように感じただろう。華やいで、異様に鮮やかに香った世界も、一緒に失われていただろう。
 どうしようもなくて、彼がきしきしと歯ぎしりをしてふいっと窓の外を向くとき、律子はじっと彼の背中を見つめた。
 もう病院に来るのは止めよう、と彼は何度も考えた。そうすれば律子を見ることはなくなるし、律子が死ぬというリアリティから逃れられる気がした。
 だけど、彼は律子が好きだった。心の底から好きだった。
 堂々巡りを何回もして、理屈で己の感情を殺そうと努めた。だけど、やはり、どれだけ考えてみても彼は律子のことが好きで、それはものさしで計るべきものではなかった。
 結局、律子に与えられることを彼は与えた。それはちょっとした会話の時間であり、愛する人を持っているという実感でもあり、哀しんでいる赤の他人の影絵でもあった。
 考えれば考えるほど、奇妙なことだがお互いにかけがえのない恋人だったとは思わない。それは代替可能なシロモノで、一種のままごとで、その途中に律子が偶々死に至る病にかかっただけのことだった。
 偶々、彼が律子を好きだった。律子もそんな彼が好きだった。
 ただ二人で居るだけで空疎が形作る美しい世界を盗み見ることができた。
 ふと――目の前が明るくなったのに、彼は気付いた。春の星空の上映が終わったのだった。生々しい夢から覚めたときのように、彼はきょろきょろと周りを見た。家族連れ、恋人同士、老夫婦――荷物をまとめて席を立ったり、背伸びをしてみたり、あくびをしてみたり、楽しそうに星空の感想を言い合ったりしていた。
 右を見ると、律子がぼんやりと上の空と言った様子でいた。
「律子」
 彼が肩を叩くと、律子ははっと息を吹き返した。律子は自分自身に少し驚いたようだった。律子は彼の方を向いた。
「出よう」
 律子の手を取って、彼は立ち上がった。律子は彼に支えられて立ち上がる。
「ちょっと、暑かったね」
 ホールを出て、通路を抜けていく。確かに、ホールは少し熱がこもっていた。
「そうだなぁ」
 天文台の出入り口から外に出ると、ひやりとした空気と雨の匂いが二人を迎えた。感覚的にワンテンポ遅れて、雨音が耳を心地良く叩き始める。
「あら。本物の星も、期待してたんだけどな」
 律子は彼の顔を覗きこんで、笑った。
「僕も、同じこと考えてた」
 彼は笑い返しながら上着のボタンを外した。そして脱いだ上着を律子の頭上に掲げて、屋根の外へ出るのを促した。
「行こう」
 律子は何か言いかけて、止めた。傘代わりの上着の下、律子は一歩を踏み出した。車まで歩く途中、律子は何度も彼の方を愛しげにちらちらと見た。彼はそれに気づかないふりをした。
 彼は運転席へと乗り込むと濡れた上着を羽織った。中のシャツもぐっしょりと濡れていて、風邪のときの居心地悪い汗のように彼を冷やした。
 キイを回すと車は身震いして、その目を猫のように光らせた。
 夜の海の中を逆さまにドライブ。泡粒のような雨がフロントガラスを滑っていく。遠くの街灯が窓に軌跡を光らせ、律子の閉じられた青白い瞼を冷たく照らしていた。びしゃびしゃと水を跳ねかす音が車内に満ちている。
「本当に大丈夫?」
 時々がたがたと車体が揺れると、律子は少し目を開けて、どこかぼんやりとした声で尋ねた。
 雨の中漸く病室に帰ると、律子はベッドに座って彼のことをじっと見つめた。
「律子、大丈夫か」
 何となく居心地が悪いというか、くすぐったいというか、彼は適当な問いを律子に投げた。
「大丈夫、って?」
「具合は。久々の外出で疲れたんじゃないか」
「大丈夫よ」
 律子はにっと笑った。
「ならいいんだ」彼もにっと笑った。その自然さに彼自身驚いた。「今日は楽しかった」
「うん、楽しかった」
「今度は何処へ行こうか」
 彼はすっかり暗くなった窓の外を眺めた。律子も窓の外を見た。人工の光の粒たち、その中に二人の思い出が灯っているのを知っているように見つめた。
「あなたの行きたいところに行きたい」
 彼はそれを聞いて、胸にさくりとナイフの入ったような気持ちがした。雨の筋がとろりと流れる窓に、映っている自分の怯えた表情が和らぐまで待って律子の方を振り向いた。
 窓から離れて、彼は律子の隣に座った。きしりとベッドが揺れた。優しく律子の肩を抱いて、自分の方へ引き寄せる。律子の頸の匂いがすっと鼻から頭の中を通り抜けた。
「好きなんだ」
 彼の口のすぐ傍に律子の耳があった。声に混ざった吐息の音まで聴かせるつもりで、彼は好きだと言った。
「知ってる」
 律子は彼の肩に頭を乗せて、目を細めた。
 彼の手に伝わる律子の体温。温かくて優しかった。彼は不意に律子の肉を支えている骨格を思った。一つ溜息をつくと、彼の目からじわりと熱い水が込み上げ、零れた。
 律子は不意に震えだした彼の身体に、依然体重を預けていた。泣いているのだな、と思った。
 彼の目からぼたぼたと落ちる涙。あと一月もしないうちに自分の抱いている身体が呼吸を止めて、竈で焼かれ、白い骨だけになってしまうのが怖かった。今ここにある律子の全てが、灰になるのが怖かった。運命の軋みに裂けた彼の胸から流れ出る血が、涙だった。
「ごめんね」
 律子がそう言っても、涙は止まなかった。
 ぎゅうっと律子のことを抱き締めて、彼は子供のように小さく叫んだ。
「死なないでくれよ」
 律子の応えは変わらない。
「ごめんね」
 律子の手が彼の髪を撫でた。
 雨の音と彼のすすり泣く声が混ざり合い、遠くの街灯を反射していた。


 律子はプラネタリウムへ出かけた日の、六日後に死んでしまった。
 自殺だった。
 同じ死であっても違うように感じたかもしれない。律子の最期を伝えられて、彼はぎゅっと唇を結んだ。巣食った病気のせいでなく、自らを殺したのだと知って彼の背骨は内側から凍りついたような感触がした。血がぐるぐると逆流して、自分の平衡感覚がまったく逆さまになったみたいに足元がぐらついた。
「嘘ですね」
 漸く口に出来た言葉がそれだった。それきり彼は何も言わないまま、律子の父と向かい合って白い廊下に立っていた。律子の父は哀しそうな表情をしたまま、彼の言葉に応えなかった。
 病院の白い廊下は昼下がりの陽を反射して、溶けたバターの色で二人を照らした。
 彼が踵を返して病室から遠ざかるのを止める声はなく、白い廊下には彼の足音だけが聞こえている。
 彼の動揺に配慮してか、葬儀などの報せは律子の父から伝えられなかった。
 律子が死んで三週間ほど経ってから、彼の携帯が鳴った。律子の父からだった。
「形見分けをしたいんだが、来られるかい」
 彼は未だに律子が傍に居るものだと思ってしまう。律子が生きている、という感覚からふと覚めると彼は目をぎゅっと瞑った。そうすれば何も見なくて済むみたいに。
「行きます」
 こーん、こーんとホームに音が反響して、その音は彼を思惑のプールから引き揚げる。
「これの他には思いつかなくてね」
 彼ははっと顔を上げた。
 居間のテーブルに座る律子の父は、文庫本を彼に手渡して頭を掻いた。礼を言い、文庫本を受け取って、それから自分がどうやって此処へ来たかを思い出した。
 CDアルバムもどうかと訊かれたが断った。代わりに、彼は別の品を希望した。
「律子、さんのメモ帳……もしよかったら譲っていただけませんか」
「律子の使ってたメモ帳」
「白に葉っぱの表紙なんですけど」
 ちょっと待ってね、と律子の父は席を外した。五分ほど経って、メモ帳を手に居間に戻ってきた。入院中に使っていたごく僅かな品は、自宅の律子の部屋に運ばれていた。
「これかな? 中身は私は見ていないからね」
「はい、多分」
 律子の父がテーブルに置いたメモ帳を受けとり、文庫本と一緒にバッグにしまった。
 それから彼と律子の両親と三人で夕飯を食べた。
 食器の片づけをする母親を横目に、二人で律子のことを少し話した。自殺のことについてはお互いに一切触れなかった。触れずとも、彼らの頭の中をじりじりと焼いている。
「僕は、彼女とはセックスをしませんでした」
 話の終りに、彼は思い出して言った。彼自身、それは恋人の父親に話すようなことではないように思えた。しかし話さずにいられなかった。
 律子の父は少し驚いて、それから、そうかい、と返事をした。
「お邪魔しました」
 彼が席を立つと、律子の父も立って玄関の前まで見送ってくれた。
「また、いつでも来ていいからね」
「ええ、ぜひ。今日はありがとうございました」
 自分は二度とここに来ないと、彼は知っていた。ドアのしまる音を背後に聞きながら、彼は薄暗い住宅街を抜け出した。
 駅の前は仕事帰り、あるいは学校帰りの人間で混んでいた。切符売り場で少し並び、切符を手早く買って改札を通ると人の流れが彼を運んでいった。
 彼は独りになりたかった。この地球上にはもはや人の居ない場所の方が少ないのに、彼と同じことを考える人は多い。
 ふと、律子の頸の匂いを鼻先に感じて、彼は顔を歪めた。
 やってきた電車には乗り込まず、次のに乗ろうと一歩身を引いた。
 ざあ、と乗車口から人が吐き出され、同じ分だけ人が呑まれていく。出ていく人も乗り込む人も、皆同じ顔をしていた。
 自分も同じ顔になっていないだろうか。怖かった。彼は自分の頬を撫でてみた。
 電車を待つ人は先ほどよりずっと少なくなった。ベンチが空いていたので、彼はそこへ行って座った。
 少しの間じっと線路の向こうにある街灯と、その周りを飛ぶ昆虫を眺めていた。彼は鞄にしまった文庫本とメモ帳を思い出した。
 彼は鞄からメモ帳と、栞の挟まった文庫本を取り出した。律子の好きな詩人の詩集。栞のある頁を開いてみると、一編のゴシック体の詩が飾りっ気のない白いページに貼り付いていた。
「この内側に桜色を詰め込んで 命尽きるまで飼い慣らされる」
 一通りぱらぱらと頁を捲って見て、彼は一つ溜息をついた。どの詩も彼に慰めを与えてくれる類の物でなく、まさしく作者の独り言、宇宙に向けての呟きに近く、今は読みたくなかった。
 詩集をしまいこんで、彼は残ったメモ帳を手の中で弄んだ。
 律子のしたかったこと、書かれたことはきっとメモ帳の中ではすでにしたことに変わっていて――彼はメモ帳の表紙を開けた。
 何処何処に行きたい、何々が食べたい、グリーン・デイの新譜が早く聴きたい。そういう他愛無い中に、初恋の話を訊きたいと控えめに書いてあった。思わず彼は笑ってしまった。ここに書いてあるってことは、もう訊いたつもりでいたのかな。
 無邪気で自由な願い事を一つ一つ手に取っていると、彼の目に涙が浮かび始めて、終いにはメモを見られないほどに涙は流れ出した。
 背を丸めてしゃくり上げる彼を、ホームの数人が心配そうに見つめていたがすぐに興味を他に向けた。
「律子は僕が殺したんだ」
 彼はメモ帳をぎゅっと握りしめて、涙がホームに落ちてぴしゃりと弾ける音を聴いた。
 自分は律子を勇気づけてやるべきだった。律子よりも死を恐れて、律子に甘えて、律子を殺してしまった。
 律子の手をとって、その手を彼女の首にかけるんじゃなくて、どうして自分の頬に添えなかったんだろう。彼は涸れるまで泣いて、そして立ち上がった。水溜りを踏んで、今しがたホームに入ってきた電車の纏う強風に身体を冷やした。
 手の中で少し歪んだメモ帳をポケットに突っ込んで、彼は電車に乗り込んだ。
 窓に移る自分の皮膚を通り過ぎていく地下の暗闇。自分の表情は怒っているようにも笑っているようにも見えた。
 彼はポケットの中のメモ帳に触った。
 律子の書いた、したかったこと、すでにした気でいること。上から順番になぞっていこう。そしたらきっと、そこに律子を見つけられる。残り香を追いかけて、きっと最後には律子に会える。最後にはプラネタリウムを見て、律子の肩を叩こう。そして、自分の初恋を聞かせよう。
 十五分ほど経って、彼の降りる駅に電車が到着した。大袈裟な音を立てて開いたドアをくぐり抜けたあと、彼はふと後ろを振り返った。律子が恥ずかしそうに笑って、メモ帳を引っ手繰りにくるんじゃないかと思って。
「ごめん」
 無様な声が胸を切りつけている間に、大袈裟な音を立ててドアが閉まった。彼の他にこの駅に降りた人間は居なかった。


 エンディングテーマ
 Green Day - Boulevard of Broken Dreams