あれは14歳の夏休み 
中学2年生だった私は、初めて765プロの事務所を訪れた 

「実は、君のお父さんとは古い付き合いでね」 

社長のそんな言葉に、心の中では苦笑いしてたっけ 

「ああ、ここでも水瀬の名前が付いて回るのか」 

ってね 

それがアイドルとしての最初の日 
いまでもハッキリと思い出せるわ 
1人で冗談を言って1人で笑ってた社長の声や、社長室に冷たいお茶を運んでくれた小鳥の笑顔 
それから…… 
頼りなさげな顔で社長の隣に座ってた、アイツのことも 

「よ、よろしくな!俺も新人だけど、一緒に頑張ろう!」 

それが、アイツが私にかけた最初の言葉 
『頼りなさげ』どころか、正真正銘頼りなかった 
まぁ、それはいまでも変わらないんだけど、ちょっとだけ仕事はできるようになったかもしれないわね 

……え? 
べ、別に褒めてるワケじゃないわよ? 
ほんのちょっと評価してやっただけなんだから! 
まだまだペーペーよ、あんなヤツ! 

「……ねぇ?」 

「な、何かな?」 

『これからの活動方針を決める』って名目で、2人で入った談話室 
アイツは私の顔を見ようともせず、黙って手元の資料ばかり眺めてたっけ 

まったく、失礼な話よね 
目の前に可愛い女の子が座ってやってるっていうのに、気の利いたセリフの一つも言えないんだから 

「アンタは私をどうしたい?」 

「……え?え?えっ!?」 

……まぁ、私の言い方が悪くなかったとは言い切れないわね 
それにしてもテンパり過ぎじゃない?

「私のパパのこと、知ってるでしょ?」 

「水瀬グループの総帥…だよな?」 

そう 
自分で言うのもアレだけど、水瀬は日本でも指折りの大グループ 
パパはそこのトップで、私はそのご令嬢ってワケ 

「スゴいよな。水瀬グループのCMを観ない日なんて無いもんな」 

「……私は何もしてないわ」 

「いや、そうかもしれないけどさ」 

私の素性を知った人は、みんな似たような態度になる 
恭しくなったり、よそよそしくなったり、物珍しそうな目になったり 
私はそれが、たまらなく嫌だった

「私は『水瀬伊織』になりたいの。分かる?」 

『大社長パパの娘』や『エリート兄さんたちの妹』なんかじゃなく、1人の『水瀬伊織』に 
それが、私がアイドルを目指そうとした理由 
すべての人に、私を私として認めさせたかった 

「だから、私はアイドルとしてトップを穫るわ。ううん、穫らなきゃいけないの!」 

アイツに対して気の毒な気がしなかったワケじゃない 
さっき会ったばっかりの相手にいきなりこんなコト宣言されたら、普通は引いちゃうもの

だけどアイツは違った 
一瞬だけ戸惑ったような顔をしたあと、似合いもしない真顔になってこう言ったわ 

「なろう。トップアイドルに」 

って 

いま思い返せば、あのときアイツも腹をくくったのかもね 
プロデューサーとして、自分が押し上げてやろうって 

そう意味では、いまのアイツがあるのは私のおかげってワケね 
だから、もっと感謝してくれても良いのよ? 
にひひっ

「そういえばさ」 

談話室で話を続けながら、おもむろに聞いてきたっけ 

「なによ?」 

「そのぬいぐるみ、外に出るときも持ち歩いてるのか?」 

「も、持ち歩くですって!?」 

ほんっとにデリカシーが無いわよね、男って! 
連れ歩くって言いなさいよ、連れ歩くって! 

「ゴ、ゴメン……」 

「まったく。うさちゃんをそこらのぬいぐるみと一緒にしないでちょうだい」 

「『うさちゃん』って呼んでるのか?」 

……あのときのアイツの憎たらしい笑い顔、いまでも覚えてるわ

「ち、違うわよ!アンタに分かりやすいように『うさちゃん』って言っただけで…その…ちゃんとした名前があるんだから!」 

「へぇ。なんて名前?」 

「えっと…シャルル……」 

「シャルル?」 

「シャ、シャルル・ドナテルロ18世よ!も、文句ある?」 

それを聞いてますます憎たらしくなる笑い顔 
私が男だったらグーで殴ってたわね、きっと

「そっか、シャルルか。やっぱり、いつも連れてないと寂しいのかな?」 

「さ、寂しいワケないじゃないのよ!何て言うか…その……そう、『お守り』よ!お守り代わり!勘違いしないでよねっ!!!」 

うつむいて肩を震わせ始めたアイツ 
こういうところは当時もいまも変わらないのよね 
人をからかう才能だけは認めてあげるわ、まったく 

だけど、アイツのそんな人柄にちょっとだけ安心したのも事実 

「このプロデューサーとなら本音を言い合えそう」 

ってね 
堅苦しいのは好きじゃないし、腹の探り合いをするのも嫌だったから 
それが、私とアイツの出会い 
今日までの、最初の日

そんな感じで始まったアイドルとしての生活だったけど、いきなり仕事のオファーが来るハズも無い 
それに当時の765プロは、開業して数ヶ月だったしね 

私より早くから所属してたのは、春香、千早、律子、あずさの4人だけ 
全員がまだまだ駆け出しで、アイドルと言うよりは『アイドル候補生』って感じだったっけ 

私はその中の一番年下で、唯一の中学生 
律子は当時のことを振り返って 

「最初から態度はデカかったけどね」 

って言うけど、アンタだった似たようなもんよ!



「水瀬さんは…14歳なのよね?」 

「そうだけど、どうかしたの?」 

765プロに加入して3日目 
初めてのダンスレッスンを終えて更衣室で着替えてると、千早に声をかけられた 
そういえば、千早とまともに喋ったのはそのときが初めてだったのよね 

「……」 

「な、なによ?」 

無言で私の身体を見つめる千早 
正直言うと、『なにやらアブノーマルな性癖』を持ってるんじゃないかって疑っちゃった 
だけど千早は 

「くっ……」 

って言うなり私に背中を向けて、シャワー室に入っていった 
……まぁ、それ以上のコメントはここでは控えておくわ



中学2年生の夏休みも残すところわずかになったある日 
事務所に入ると、春香がなにやらご機嫌だった 

「どうしたのよ春香?おかしな転び方でもした?」 

「ち、違うよ伊織ちゃん……」 

9月から新しいアイドル候補生が加わるっていうのが、春香がご機嫌な理由だった 
それも、一気に3人も 

「どんな人たちかなぁ?みんな可愛いんだろうなぁ。楽しみだなぁ!」 

そう言って、なにやらな踊り始めた春香 
MPを吸い取られそうだったわ、アレ

「諸君、集まってくれたまえ!」 

9月最初の土曜日 
まだクーラーも無かった事務所に、社長の声が響いた 

「今日から諸君の仲間になる3人だ。みんなよろしく頼むよ!」 

最初に社長から紹介されたのは、当時高校2年生だった真 
引き締まった身体にショートカットがよく似合ってたっけ 
直感だけど、「ケンカ友達にちょうど良さそうね」って思ったわ 
実際にその通りになったけどね、にひひっ 

2人目は雪歩 
目を伏せたままオドオドビクビクしてたわ 
いまだから言うけど、「すぐに辞めちゃいそうね」って思った 
まぁ、こっちの直感は見事に外れたけど 
いまでもオドオドビクビクは変わらないけど、開き直ると強いのよね、雪歩って 
本番に強いタイプって言うのかしら? 

そして3人目 
えっと…… 
話さなきゃダメ…よね、やっぱり 
なんつーか、照れくさいのよね 

あらためて、やよいのことを話すのは 

「ホラ、みんなに挨拶して」 

社長からうながされたやよいは、事務所いっぱいに響くぐらいの元気な挨拶した 

「うっうー!高槻やよい、中学1年生です!みなさん、よろしくお願いしまーっすぅ!」 

そう言うなり深々と頭を下げて、両手は後ろに跳ね上げたっけ 
自分が最年少じゃなくなったのが嬉しくなかったワケじゃないけど、そんなことをアレコレ考える前に、 

「み、水瀬伊織よ!分からないコトがあったら遠慮なく聞いてよねっ!」 

自分で勝手に教育係を買って出てたわ…… 

し、仕方ないじゃない! 
だってやよいなんだから! 

こうして8人になった765プロ 
真と雪歩は加入日も年齢も同じってコトで、 さっそく意気投合してたっけ 
あんまりにも仲が良いもんだから、「デキてる」んじゃないかって噂になったこともあったっけ 

言うまでもなく、発信源は小鳥なんだけどね 
まったく、そんなだからいまでも独り…… 

……なんでも無いわ 
忘れて 


アイドル候補生が増えたおかげで、レッスンにも張り合いが出るようになった 
特にダンスは、真のおかげでずいぶんと助かったわ 
意外と教え上手なのよね、真って 

千早がボーカルレッスンを引っ張ってくれたらもっと良かったんだけど、あの頃の千早はそういうタイプじゃなかった 
『自分の歌』以外には興味が無いっていう、そんな感じ 

その理由にみんなが薄々気付いていたけど、軽々しく触れていいようなコトではなかったから 
私だって、家の話なんてしたくないもの 

「プロデューサー、お金貸して下さい…給食費が払えないんですぅ……」 

……例外はいるみたいだけどね 



「お疲れさま、伊織。気をつけて帰れよ?」 

すっかり日が短くなった10月のある日 
20時過ぎの事務所では、アイツが書類の束と格闘してた 
まぁ、無理も無いわよね 
1人で8人の面倒を見なきゃならないんだから 
もっとも、最終的には13人まで増えちゃうんだけどね 
帰らずにアイツのことを見てた私の視線に気付いたのか、手を止めてこっちを見た 

「早くみんなにアイドルとして仕事してもらいたいからな。それに伊織とも約束したしな」 

「トップになろう、ってやつ?」 

「うん。だからこのくらいは苦にならないよ」 

そう言って笑ったあと、また手を動かし始めたアイツ 
私はちょっとだけ、頭を下げた

「わ、私に仕事ですかぁ!?」 

最初にチャンスを掴んだのは雪歩だった 
静岡ローカルの、お茶のCM 

「ああ!『萩茶」っていう銘柄のお茶のCMだ!」 

「お茶ですかぁ!う、嬉しいですぅ!」 

興味の無い人から見れば、取るに足らない仕事かもしれない 
だけどステップアップには違いないわ 

嬉しそうな雪歩の横顔を眺めながら、たぶん全員が同じ気持ちだったはず 
嬉しさと悔しさが入り混じった、そんな気持ち 

誰かを、特に仲間を蹴落とそうなんて気は、毛頭無い。当時もいまもね 
だけど、このときハッキリ自覚したわ 

「自分の居場所は自分で作るもの。そして自分で守るもの」 

ってね

「行ってきますぅ!」 

撮影に出かけるアイツと雪歩を事務所で見送りなから、取り残されてしまったような感覚を抱いてた 
たぶん、全員が 

「はーい!レッスンに行く時間よ!」 

律子がそう言ってみんなをうながしたけど、無理に元気な声を出してるのはよく分かった 
損な性格よね、律子も 

「せっかくチャンスが来たのに実力が足りない、なんてことになったら目も当てられないわ。だから頑張りましょう!」 

うん、その通りだわ 
運と実力の両方が備わってなきゃ、上になんて行けないもの 
いつか来る『チャンス』を信じて、私たちはそれぞれのレッスンに向かった 



日増しに寒さを増していた11月の終わり 
一冊の雑誌を持った春香が、事務所に駆け込んできた 
……そして転んだ 

「いたた……」 

「あらあら~。どうしたの春香ちゃん?そんなに慌てて」 

「こ、これ!これ見て下さい!」 

そう言いながら差し出した雑誌を、あずさが捲り始めた 
そして、あるページで指が止まった 

「あら~!あらあら~!」 

「どうしたのよあずさ?」 

そんなやり取りを聞きつけて、みんなが集まってくる 

「うふふ。これ、見て下さい」 

あずさが差し出したそのページには大きな文字で、 

「噂のCM美少女~ローカル編~」 

って書かれてた

「雪歩だ!」 

案の定というか、真っ先に声を挙げたのは真だったわ 
合計4ページの特集記事の中の2ページ目に、雪歩はいた 

CMから抜き出したであろう写真の中には、両手で『萩茶』って書かれた湯呑みを持って微笑んでる雪歩 
『女の子』と『湯呑み』っていうコントラストが、ちょっと面白かった 

「萩原雪歩(765プロ)って書いてあるわね」 

律子に言われて視線を走らせると、確かにそう書かれてた 

「これって全国誌だよね?宣伝効果バッチリだよ、雪歩!」 

「え、えへへ……」 

戸惑いながらも嬉しそうな雪歩 
確かに『美少女』だわ 
ちょっとだけ悔しいけどね

そんな風に盛り上がってたとき、事務所の電話が鳴った 

「はい、765プロダクションでございます。はい。はい、萩原雪歩は、当プロダクションに所属しておりますが」 

その声に、全員の視線が雪歩に集まる 

「オーディション?萩原雪歩にですか?はい。それでは担当者におつなぎ致しますので、少々お待ち下さい」 

こっちを振り返り、プロデューサーを手招きしてる小鳥 
どうやら早くも、『宣伝効果』が表れたみたいね 


「分かりました。では、宣材資料を送らせて頂きます。はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします!」 

電話を切ったアイツは満面の笑みを浮かべながら、親指を立てて見せた 
その指を下ろす間もなく、次の電話が鳴る 

「ありがとうございます、765プロダクションでございます。はい。プロデューサーは私ですが。 
 ええ。当プロダクションには現在8名のアイドルが所属しております」 

物事が動き出すときって、こんな感じなのね 
いままで週に1回あるか無いかだったオーディションが、この日を境に急増した 

畑を耕してくれたのはアイツで、種を蒔いてくれたのが雪歩 
次は私自身が、自分の花を咲かせる番、ってワケね 



12月も半ばを過ぎた土曜日 
期末テストで休んでた私は、3日ぶりに事務所を訪れた 

「……誰よアンタ」 

入り口のドアを開けると、どう見ても小学生の女の子と目があった 

「おやおや~。またまた『ご新規さん』の登場ですな!」 

頭の右側で束ねたサイドボニーを揺らしながら、こっちに駆け寄ってくるその子 

「真美真美ー!新たなターゲットを発見したよー!」 

その声に導かれるように、事務所の奥からそっくりな顔がダッシュで近付いてくる 

「えっ?えっ?」 

事態が飲み込めない私の前に並んだ2つの同じ顔 
違うのはサイドポニーの左右と、服が暖色系か寒色系かってことぐらい

「双海姉妹の妹、亜美だよー!」 

「同じく姉の真美だよー!」 

「え、えっと……」 

この頃の私はまだ、ツッコミスキルも低かったのよね 
2つの顔を交互に見ながら、何も言えないでいたっけ 

「ねぇねぇ!お姉ちゃんの名前は?」 

真美と名乗った子がその場でピョンピョン飛び跳ねながら聞いてきた 

「え?み、水瀬伊織だけど……」 

「『みなせいおり』さんとおっしゃるのかね。ふーむ……なかなかの難題ですな」 

「腕の見せどころですな、真美」 

2人して腕組しながら、なにやら思案し始めた 
相変わらず何も言えないでいる私をよそに

「あっ!ひらめいた!真美ひらめいたよ!」 

「なになに~?」 

「んっふっふ~。『いおりん』なんてどうだい?」 

「わっ!いいじゃんいいじゃん!『いおりん』に決定だね!さっすが真美ぃ!」 

「……何が?」 

我ながら芸の無い質問よね…… 
ちっとも頭が回らない私に、真美がまた飛び跳ねながら言った 

「だーかーらーっ!お姉ちゃんのニックネームだよ!」 

「……は?はっ!?」 

「よろしくね、いおりん!真美のことは『真美』って呼んでよね!」 

「亜美は『亜美』だよー!」 

いい根性してるわよね、この2人 
当時もいまも、ね

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!だいたいアンタたちはなんで事務所にいるのよ!」 

「ねぇねぇ」 

「ここは芸能プロダクションで、託児所じゃないんだからねっ!」 

「ねぇねぇ」 

「それとも社長の子供とか?そんな話聞いたことも無いわよ!」 

「ねぇってばー」 

「うるっさいねぇ!何よ?」 

「そこに立ってると事務所に入れないの」 

「アンタ誰よ!?」 

「ミキだよ?」 

「ごめん、ぜんっぜん分かんないわ!」 

当時の私じゃ、あの状況は捌き切れないわ…… 
完全にキャパオーバーよ……

「あっ!おはようミキミキー!」 

「おはようなの、亜美。真美もおはよう」 

「おっはよー!」 

私だけ部外者な空気…… 
つーか小鳥ってば、このやり取りを見ながら笑いをかみ殺してたし 

「……アンタたち、誰?」 

「ミキたち昨日から765プロに入ったの。よろしくね、でこちゃん」 

「で、でこ…でこちゃん!?」 

「だって、おでこ可愛いんだもん。可愛いっていいことでしょ?そのうさちゃんも可愛いね」 

「あ、ありがとう…って、ちょっと待ちなさいよ!」 

「あふぅ…ミキ、5時間くらい寝るね?」 
なんだかよく分からないうちにまた3人増えてた 
ありがたいニックネームも2つ増えたわ


11人になってますます賑やかになった765プロ 
それに比例して、アイツの負担は増えていった 
この頃から律子は、自分の『進路』について考え始めてたみたいだけどね 

「アンタ、事務所で寝たの?」 

東京に初雪が舞った12月最後の日曜日 
珍しく最初に事務所にやって来た私が見たのは、ところどころ破れてるソファーに寝転がってるアイツの姿だった 

「おう、伊織か。おはよう」 

毛布から顔だけ出して、朝の挨拶 
その声は少し掠れてた 

「……なんか飲む?」 

「じゃあ、コーヒーをブラックで。悪いな」 

給湯室に向かう私の耳に、小さな咳払いが聞こえてきた

「風邪引いたんじゃない?大丈夫?」 

私の淹れたコーヒーを飲むアイツに、返答の分かりきってる質問をした 

「大丈夫」 

そう言って微笑んで、またマグカップに口を付けた 

まだ子供だった私に気の利いたことが言えるはずもなくて、それでもやっと絞り出したのが、 

「……無理しすぎなんじゃない?」 

なんていう、毒にも薬にもならない言葉だった 
それを聞いたアイツはまた微笑んで、 

「大丈夫だよ。ありがとう」 

って言った 
年の瀬の朝は静かで、遠くで走る電車の音が聞こえてきた

「今が大事なときときだからな」 

コーヒーを飲み終えたアイツが、ポツリと言った 
確かにその頃、小さな仕事が安定して入ってくるようになってた 
私が朝早く来たのも、9時から入ってた仕事の準備のため 
「いまが大事なとき」だってことは、765プロの全員が分かってた 
だけど…… 

「その大事なときにアンタに身体を壊されたら、みんなが困るわ」 

言ってもどうしようも無いことなんだろうけど、言わずにはいられなかった 

「大丈夫だよ。それに……」 

アイツは空になったマグカップを見つめながら、まるで自分に言い聞かせるみたいに呟いた 

「これはお前らに対する、プロデューサーとしての俺の責任だからな」

言いたいことはよく分かるわ 
だけど、納得できるかは別問題なのよね 

「そのせいで身体を壊したら本末転倒じゃない!」 

「そうだけど……まぁ、あと正月明けまでは保つだろ」 

「正月明け?どういうこと?」 

「……いや、何でもない。とにかく、お前らは自分の仕事に集中してくれ」 

「悪いけど無理だわ」 

こんな場面で「はいそうですか」なんて言えるヤツは、765プロには1人もいないわ 

「困ったな……」 

本気で困ってるアイツの顔を見てると、いろんな意味で申し訳ない気持ちになってきた 

「ごめん…アンタを責めてるワケじゃなくて…その……むしろ感謝してて…だから心配で……」 

自分でも驚くくらい素直な言葉が、口から零れていく 
なんでだか分からないまま、眼には涙がたまっていく 

そんな私を見たアイツは、ますます困り顔になって…… 
とうとう口を滑らせた 
たぶん、私を安心させるために 

「実は、律子がな……」 

そのとき初めて、私は律子の『決意』を知った

「律子が?」 

――アイドルを辞めてプロデューサーになる 

そう聞かされた私は、直ぐには信じられなかった 
765プロで一番総合値が高いのは、律子か美希だと思ってたから 
そこに自己管理能力と向上心、それからセルフプロデュース力を上乗せすれば、ダントツで律子が一番だったハズ 
それなのに…… 

「もともと裏方の仕事の面接を受けたみたいだしな、律子は」 

「え?そうなの?」 

アイツの話だと、765プロを開業する際に出された求人を見た律子は、事務職として応募してきたみたい 
だけど面接で応対した社長は、律子をアイドルとして採用した、ってワケね 
まぁ、人を見る目はありそうだもんね、社長は

「そういう経緯もあるし、プロデューサー1人って現状もある。それらを鑑みて、律子が自分で決めた」 

「そのことを知ってるのは?」 

「社長と小鳥さんと俺、それからお前」 

「……なるほどね」 

律子が自分で決めたことなら、私がとやかく言う筋合いじゃない 
それに律子なら、プロデューサーとしても優秀だと思ったから 

「分かったわ。アンタが無理してた理由もね」 

「別に律子に頼れるから無理してたワケじゃいさ 
 さっきも言ったように、お前らに対する『責任』だ」 

そう言ってまた微笑んだアイツの顔を、真っ直ぐに見ることができなかった 
当時の私には、その感情がなんなのかよく分からなかったのよね

アイツが言ってた通り、正月明けに律子のプロデューサー就任が発表された 
私と同じようにみんな驚いてたけど、理由を聞いて納得したみたい 
髪をアップにしてスーツを着こんだ律子は、アイドルだったときと同じくらいキラキラして見えた 

「……律子…さんは誰を担当するの?」 

恐る恐る、って感じで聞いた美希 
当時からいまに至るまで、唯一の天敵なのよね 

「そうねぇ…アンタとマンツーマンで」 

「えっ!?」 

「何よその反応は。冗談よ」 

まだ転身したばっかりってこともあって、アイツの補佐をしながら仕事を学んでいくことにしたみたい 
すぐに追い越しちゃいそうな気がしたのは、私だけじゃないハズよ?

「CDデビュー、ですか?私が?」 

吉報がもたらされたのは2月24日 
偶然にも、千早の誕生日前日だった 

「ああ!お前がだ!」 

なんでも、千早のデモテープを聞いた関係者がその声に惚れ込んじゃったみたい 

「私の…声に……」 

俯いて呟いてる千早に、春香が声をかけた 

「千早ちゃん、笑って!」 

「えっ?」 

「こういうときは、笑うんだよ!」 

満面の笑みでそう言った春香の眼からは、涙が零れてた 
まぁ、親友だもんね、2人は 
私だって、やよいのCDデビューが決まったときにはトイレに隠れて泣いたもんよ

CDの発売日は3月24日 
これまた偶然にも、やよいの誕生日前日 

「た、高槻さんへの誕生日プレゼントになるかしら……?」 

カレンダーを見つめながら呟く千早 
……なんか悔しかったわ 
やよいはやよいで 

「うっうー!いままでで最高のプレゼントですぅ!」 

なんて言いながら飛び跳ねてたし 
あー、もう! 
いま思い出しても悔しいわ、まったく!



「キ、キスシーンですって!?!?!?」 

私の声に、事務所にいた全員の視線が集まった 

徐々に春めいてきた3月の半ば 
私に届いたオファーは、某有名ミュージシャンのPV出演 
それだけなら歓迎すべきことなんだけど…… 

「いや、キスシーンって言っても、唇と唇じゃないからな? 
 共演者のほっぺたにチュッってするだけだから」 

「共演者って…男?」 

「まぁ…ラブソングのPVだしな」 

「うわぁ…伊織ちゃんが大人になっちゃいますぅ……」 

やよいの言葉に何人かが笑ってたみたいだけど、気にしてる余裕なんてなかったわ

「これも仕事だからな。我慢してくれ 
 それにYouTubeでも公式配信されるPVみたいだから、大勢の人にお前をPRすることができる」 

それくらい分かってるのよ、頭ではね 
だけど…その…… 

「職務上聞いておくけど、そういった経験は?」 

「あ、あるワケないでしょ、バカぁ!」 

「うーん…困ったな……」 

「アンタは困るだけで済むんでしょうけど 、私は済まないんだからねっ!」 

当時14歳だったんだもん 

「分かりましたチューします」 

なんて言えるワケないわ

「じゃあ…練習するか?」 

「は?」 

「撮影までに少しでも慣れておく必要があるだろ?」 

「練習って……相手は?」 

困った顔のまま事務所の中を見回したアイツ 
当然というべきか、1人のアイドルのところで視線が止まった 

「やっぱり真かなぁ?」 

「ボクですか?まぁ、別に構いませんけど」 

「………………いや、やっぱり止めとこう」 

「えっ?なんでですか?」 

真は気付いてなかったみたいだけど、あのとき真の後ろに立ってた雪歩の顔、いまでもたまに夢に見るわ……

「真がダメとなるとなると…うーん……」 

「ボク、別にダメじゃないんですけど」 

「ま、真君はもうこの話題に参加しない方がいいって思うな、ミキ」 

何度も事務所の中を見回しながら、ウンウン唸ってたアイツ 
10周くらいしたあと、想定外の言葉を吐き出した 

「……消去法で俺か?」 

「……は?はぁ!?何言ってんのよアンタ!バカじゃないの!」 

「いや、消去法で……」 

「こ、この、変態!ド変態!!変態大人!!!」 

「さすがに傷付くぞ、それ……」 

結局、小一時間ほどの議論の結果、練習相手は一番背の高いあずさに決まった 
まぁ、いまとなっては笑い話よね

撮影のときの話はあんまり意味ない気がするのよね 
だってほっぺたにキスっていっても、ホントにするワケじゃなかったんだから 
上手い具合に角度を調整して、キスしてるように見せるだけ、ってワケ 

気合い入れて撮影に臨んだのに、なんだか拍子抜けしたのを覚えてるわ 
まぁ、あずさのほっぺたにキスできたのは役得だったかもね。にひひっ 

そのときのPVの監督から気に入られちゃって、そのあと何度も一緒に仕事することになったわ 
アイツからは、 

「お前の猫っかぶりは天才的だな……」 

って言われたけど、セルフプロデュースって言って欲しいもんだわ



PV撮影が終わってからちょうど一週間後の3月20日 
事務所に千早のデビューシングル、『蒼い鳥』の製品版が届いた 
それより前に販促用のサンプルCDで耳にしてはいたけど、実際に『商品』として売り出される物を見るのはやっぱり違うのよね 

「これが全国のショップに並ぶのよね……?」 

手に取ったジャケットを眺めながら、あずさが言った 
千早とは一時期一緒に住んでたこともある、言ってみれば『妹』みたいな存在だから、なおさら感慨深かったみたいね 

「私の声が…全国に……」 

当事者の千早も、まだ信じられない様子だったわ 
だけどそれは現実で、このCDは『歌姫 如月千早』としての産声になった 
いまでも千早の歌声は、日本中に響き続けてるんだから

そして3月24日 
仕事の合間に立ち寄ったCDショップで、『蒼い鳥』が並んでるのを確認した 
もちろん、何枚か購入したわよ? 
事務所に戻ったあと、その中の一枚にサインを書いて貰った 

ぎこちない手つきでサインする千早を見ながら、私も頑張ろうって気持ちになれた 
そして、それはいまでも大事に保管してあるわ 
なにしろ、『765プロのデビューシングル』でもあるわけだしね! 

発売当初は伸び悩んだ売り上げも、ラジオと有線から火が付いたおかげで右肩上がり 
夏までには10万枚近く売り上げることになったわ 
『たった10万枚か』なんて言うヤツとは、友達にはなれないわね 


桜が咲いて中学3年生になると、今度は私の番だった 
出演したPVがYouTubeに公式配信されると、一週間も経たないうちに再生回数50万回を越えた 
さすがは人気ミュージシャン、ってとこね 
いまでも人気は衰えてないし、歌番組でもたまに一緒になるんだから 

そして目論見通りというか、 

「PVのあの女の子は誰?」 

って流れになったのよね 
コメント欄に 

「水瀬伊織よ!」 

って書き込みたくなったけど、それはさすがに自重しておいたわ

「おっ、伊織!また雑誌インタビューの申し込みがあったぞ!」 

あれ以降、毎日のように仕事やオーディションのオファーが届くようになった 
内容は様々だし、ごく小さな仕事もあったけど、着実にステップアップしてるのが自分でも分かったわ 

だけどまだまだ通過点 
ここで油断したら、すぐに落ちていってしまうってことも分かってた 
「驕れる者久しからず」ってやつね 

765プロ自体の業界内での知名度も着実に上がっていて、仕事先での扱われ方も変わってきてた 
最初のころはヒドかったんだから 
オーディションの順番がいつも最後の方だり、スタッフの対応も適当だったりね

「自分、我那覇響っていうんだ!沖縄出身で特技はダンス!よろしくね!」 

「四条貴音と申します。素性を明かすことはできませんが、よろしくお願いいたします」 

5月1日 
765プロにまた新しい仲間が加わった 
2人とも別な事務所に所属してたみたいだけど、いろいろあって移籍してきたみたい 
社長の昔の同僚が経営してた事務所らしいけど、あんまり良い噂は聞かなかったのよね 

「あら~。可愛いハムスターちゃんね~」 

「へへー!ハム蔵っていうんだ!」 

「ぢゅう!」 

「なんだか、春香さんの声と似てますぅ!」 

「そ、そうかな?『ぢゅう!』」 

「あはっ。ホントそっくりなの!」 

さっそく馴染んでたのを見て、一緒にやっていけるって確信した



「伊織ちゃん、お誕生日おめでとう!」 

5月5日 
私の15歳の誕生日 
やよいの声のあとに、15本のクラッカーの音が続いた 

「お、大げさなのよアンタたち!ただの誕生日じゃない!」 

「おやおや~。15歳になっても、いおりんは素直じゃないですな~」 

「う、うるさいわよ亜美!」 

「ふふ。真、賑やかな事務所ですね、ここは」 

「うん!前のとこじゃ考えられないよ!」 

他の事務所のことは分からないけど、ここが特別だってことはよく分かってるわ 
765プロじゃなかったら、この中の半分くらいはアイドルを諦めてたかもしれないもの

「みんな、ちょっと良いかしら?」 

誕生日パーティーが盛り上がってる中、律子が私たちの前に立った 

「今日はおめでたい席だから、それに便乗させて貰うわ」 

ケーキの載ったお皿やグラスを持ったまま、私たちは律子の声に耳を傾けた 

「このたび、私が専任プロデューサーとなって新ユニットを結成することになりました 
 メンバーは3人で、もう決めてあるわ」 

おお、っていうどよめきを片手を挙げて制して、律子が続ける 

「これから名前を呼ぶ3人は、前に出てきてちょうだい」 

みんながお互いに顔を見合わせてたっけ 

「まずは、本日の主役でもある伊織」 

「えっ?私?」 

みんなの視線が自分に集まるのを感じながら、律子に促されるまま前に出た 

「伊織にはこのユニットのリーダーを任せるつもりよ」 

「リ、リーダー!?つーか、もうそんなことまで決めてんの?」 

「当然よ。2人目のメンバーは、あずささん!」 

「わ、私ですか?」 

キョトンとした顔で自分を指差してるあずさを、律子が笑顔で手招きした 

「そして3人目は……亜美!」 

「えっ?亜美?」 

「そうよ、アンタよ。ほら、前にいらっしゃい」 

こうしてみんなの前に並んだのは、個性バラバラな3人 
もっとも、その『バラバラ』こそが律子の狙いだったってことが、あとになって分かるんだけどね 

「伊織をリーダーとしたこの3人で、これからはユニットとして活動をしていくわ 
 ユニット名は……『竜宮小町』!」 

……正直言うと、律子ってあんまりネーミングセンス無いわよね 
ユニット名の理由が、 
「名字に『水』に関係した漢字が使われてるから」 
って聞いたときは、なおさらそう思ったわ

パーティーのあと、3人であらためて活動方針についての説明を受けた 

「伊織をリーダーにしたのには2つ理由があるわ 
 1つ目は、純粋にリーダー向きだとおもったから」 

「2つ目はなによ?」 

「現時点で一番名前が売れてるから」 

「それってつまり……?」 

「そう。アンタの名前に乗っかるってこと 
 もちろん、最初だけね」 

……敵に回したくないタイプよね、律子って 
目的のためなら徹底してリアリスト 
それに加えて、自分が嫌われることなんて何とも思ってない 
他の2人が聞いてる前で、あえてそれを言っちゃうんだから 
もちろん、ハッパをかけるためなんだろうけどね

「実は、3人コスチュームも発注済み。デビュー曲も候補曲の中から絞り込んでるところよ」 

「うふふ。律子さん、私たちが辞退するかもなんて、思ってもいなかったんですね?」 

「ふふ…はい。辞退するメリットも無いでしょうし」 

「亜美はちょっと不安だよ……」 

「大丈夫よ。アンタは竜宮のメンバーとしてやっていける 
 真美だってちゃんと1人で活動していけるわ。強い子だもん」 

「うん…そだね。亜美、頑張るよ!」 

私もユニット活動自体に不安は無かった 
だけど…… 
アイツとの『約束』はどうなっちゃうんだろって、そのことばっかり考えてた 
最初の日に交わした、あの約束のことを……


それから3日後、竜宮小町のコスチュームが事務所に届いた 
『水』に関連しているユニット名らしく、青と白を基調とした可愛らしいコスチューム 

「いいなぁ。ミキもこういうの着たいの」 

「私の名字にも『海』って漢字が入ってるんだけどなぁ…」 

どうやら、美希と春香は竜宮小町に入りたかったみたい 
でも、入らなくて正解だったと思うわ 
どう考えてもソロ向きだもん、2人とも 

「あ、あずささん、その髪は!?」 

真の声に入り口の方を振り返ると、腰まであった髪をショートカットにしたあずさが、照れくさそうに立ってた 

「うふふ。『髪を短くすると若く見える』って聞いたから~」 

十分若いんだけどね、あずさも 
亜美と一緒じゃ、気にするなってのが無理なのかもしれないけどさ


竜宮小町のデビューは『水』無月の6月半ばに決まった 

「『水無』月 じゃダメじゃない?」 

って意見もあったけど、15分ほどの討論の結論、「ま、いっか」って結論に達したのよね 
まぁ、真剣に議論するようなコトでも無いしね 

そこから逆算して、翌週からはデビューシングルのレコーディングも始まった 
タイトルは『SMOKY THRILL』 
小悪魔で小生意気で小粋な、竜宮小町のテーマ曲 

レコーディングはスムーズだったんだけど…… 
ダンスレッスンのときの律子の鬼軍曹っぷりったら、ちょっとしたトラウマレベルだわ 

自分たちのことに精一杯だったせいもあるけど、アイツとの『約束』のことを考えてる余裕は無かった 
つーか、アイツとまともに話す機会もなかったし 
まぁ、あっちはあっちで9人の面倒を見なきゃいけないワケだし 
しかも売れる前だったあの頃とは違って、『それなりに仕事のある』9人のね 

「お疲れさま」 

「おう!気を付けて帰れよ!」 

たまに挨拶をするときも、デスクに積み上げられたら書類に目を落としたままだった 

何か言おうとして立ち止まっても、やっぱり何も言えなかったのよね、私は



『次のリクエストは、PN「しそっぱ」さんから。現在着実にヒットチャート上昇中。 竜宮小町で、SMOKY THRILL』 

三者三様の個性が受けたというべきかしら? 
竜宮小町はどんどん知名度を上げていった 

自分で言うのもアレだけど、最初は『水瀬伊織と他2名』って扱いを受けることも多かった 
だけどデビューから1ヵ月も経つ頃には、3人それぞれの個性に光が当たるようになってた 

この辺りは、律子の慧眼を素直に讃えるべきよね? 


「では行ってきます。明後日の夜には戻りますから」 

知名度が上がるにつれて、都外への泊まりがけの仕事も増えてきた 
長いときで3日ほど事務所に顔を出せないこともあったっけ? 

もっともいまは、半月近く日本から離れちゃう仕事も入ってきたりするんだけどね 
だけど当時の私には、3日の『留守』も物凄く長く感じられた 

その頃になるとさすがに気付いてたのよね 
自分の抱いてる『感情』が何なのか、ってことに 
もちろん、アイツに対する、ね



あっという間に中学校生活最後の夏休みが過ぎて、9月も半ばを迎えた頃 
竜宮小町としてだけじゃなく、3人それぞれに個別の仕事も入ってくるようになってた 
もちろん竜宮の仕事も順調に増えてたから、アイツと話す機会はますます減ってた 

アイツもアイツで忙しそうで、765プロ全体が上昇気流に乗ってたわ 
なんせ、事務所にエアコンが取り付けられたんだから! 
そういえばついでに、ソファーとテレビも新しくなったっけ 

要するに、私の『個人的な感情』以外は、すべてが上手く回り始めてた、ってワケ 
そんな中で私1人がワガママ言うわけには行かないもの 
それも、「もっとアンタ話したい!」なんてコトをね


「……何してんのよ、アンタ」 

あれは10月半ばの雨の強かった日 
私はソロの仕事を終えて、楽屋で律子が迎えに来るの待ってた 
だけど楽屋のドアを開けたのは…… 
律子じゃなくてアイツだった 

「律子が急な仕事が入ってな。手の空いてた俺が迎えに来たんだ」 

「そう…なんだ」 

恥ずかしながら、目を見ることが出来なかったわ 
だって、完全な不意打ちだったんだから!話したいと思ってた相手がホントに目の前に現れたら、誰だって私と同じようになるわよ!

「よし、それじゃあ帰るか。事務所で次の仕事の準備しないとな」 

次の仕事は竜宮小町としての泊まりがけの仕事 
その日の夕方出発して、帰ってくるのは2日後の夕方 
つまり、2日間ほどは顔を見ることもできない 

「だから何だ」って言われると返す言葉も無いけど…… 
ちょっとだけ、甘えたかった 

仕方ないじゃない 
まだ子供だったんだから…… 

「雨、強いんでしょ?」 

「ん?まぁ、しばらくはこの調子だろうな」 

「濡れるのはイヤ」 

「いや、入り口から車まですぐだから」 

うさちゃんを抱いたまま、ふくれっ面で俯いてる私 
「構ってちゃん」って言われたとしても、甘んじて受け入れるわ…… 

「お前、しばらく話してなかったけど相変わらずだな」 

「……相変わらずってどういう意味よ?」 

「子供だって意味だよ」 

それくらい分かってたわよ 
だけど、自分で思うのと人から言われるのは違うのよね 

「アンタが……しなさいよ」 

「え?何だって?」 

「じゃあ、アンタが大人にしなさいよ!」 

「はぁ?お前なぁ……あんまり大人を」 

ーからかうんじゃない 
そう言われる前に、身体が勝手に動いてた 
だって、「からかってる」なんて言葉で、私の気持ちを否定されたくなかったから 

「お、おい、伊織!」 

思い切り飛び込んでやったわ 
アイツの胸にね 
その時の私の、ありったけの気持ちを込めて

「ど、どうしたんだよ伊織?」 

「アンタなんか…アンタなんか!」 

抱き付いたまま、涙声で何か言おうとした 
だけど案の定、言葉にならなかった 

抱き付いた拍子に床に落ちたうさちゃんが、いつも変わらない眼差しで私を見てたっけ 

「えっと…子供扱いしたことは謝るよ。すまなかった」 

「いい…別に……子供だもん」 

「開き直るなよ……」 

「ホントに子供だもん……分かってんのよ、それくらい……」 

こういう女は面倒くさいわ、って思う「ズバリそのもの」な女が、そのときの私だった 
だけど、アイツのシャツを握りしめた両手を、どうしても離すことが出来なかった

「はぁ……いいよ、気の済むまでそうしてろ」 

「……何時間かかるか分かんないわよ?」 

「付き合ってやるよ」 

「……頭くらい撫でなさいよ」 

ああ、恥ずかしいわ…… 
こんなときでも素直になれない自分が 
まぁ、いまだって似たようなもんだけどさ 

アイツの手のひらが私の頭を包んで、ゆっくりと動いてた 
2人とも何も言わずに、しばらくそうしてたっけ 
心の中で何度も唱えてた「ごめんなさい」って言葉は、ついに私の口からは零れなかった 
そして、「私はアンタのことが……」っていう、大切な言葉も


私がどんな感情を抱いてようと、季節は勝手に巡る 
高校1年生のとき、竜宮小町と千早は紅白に呼ばれた 
その発表があった日、765プロに所属してから初めて、パパから仕事の話を聞かれた 

「さすがは私の娘だ」 

そんな言葉にも、腹は立たなかった 
だって、ずっとアイツの姿を見てきて学んだから 
『自分の責任』を果たしてる人の尊さを 
パパは水瀬グループのすべてと、私たち家族に対する責任を果たしてる 
それに比べたら、パパに対する私の思いなんてちっぽけなもの 

もう、『パパの娘』って呼ばれても気にならない 
自分に自信が無い人ほど、「自分は自分」って言いたがる 
だから私は、なんて呼ばれようと、もう気にしない



高校2年生の夏休み 
多忙なみんなのスケジュールを調整して、2泊3日で海の見える温泉に行った 

「伊織ちゃんは、プロデューサーのことが好きなんでしょ?」 

やよいと2人て夜の砂浜を歩いているとき、いきなりそう言われた 

「なんでそう思うの?」 

「うーん……親友だから、かなぁ?」 

いつの間にか私と同じくらいの身長になったやよい 
もう、あの口癖を聞くことは無くなった 
だけど私たちは、あの頃と何も変わらない 

「うん。アンタと同じくらいにね」 

「えへへー」 

そのあとやよいと手を繋いで歩いた夜の砂浜には、波の音だけが満ちてた



いまから3ヵ月前の、高校最後の冬休み 
学校の友達たちと、夜の教室に忍び込んだ 
持ち寄ったお菓子をほうばりながら、朝までとりとめの無い話をしてた 

そこにも確かに、私の仲間がいた 
765プロとは別のストーリーがあった 

それはアイツややよいや竜宮小町と同じくらい、大切なもの 
私の人生を豊かにしてくれた人たち 



そして今日 
高校を卒業して、最初の土曜日 
私たちの新しいストーリーが始まろうとしていた 

「4年半経つのね」 

「そうだな。一瞬だった気がするよ」 

3月の柔らかな風に包まれながら、私たちは事務所の屋上にいた 
この人は明日、アメリカに旅立つ 
プロデューサーとして、もっと上を目指すために 
2年間という期間も、きっとあっという間 
だけどその前に、私には伝えなきゃいけないことがある 


「最初の日の約束、覚えてる?」 

「うん。途中からは、なんの手助けもしてやれなかったけどな」 

「それは仕方ないわ。私は…覚えててくれただけで嬉しい」 

『なろう。トップアイドルに』 

あの日そう言ってくれたから、いまの私がある 
まだ頼りなかったこの人と、子供だった私 
いまは2人とも、少しだけ大きくなれた 

まだまだトップアイドルとは呼べないけど、目の前に高い山があるのは、きっと良いことだから 

「帰ってきたら……」 

「うん」 

「もう一度、約束するところから始めましょ?」 

「うん」 

「何も成長してなかったら許さないんだからねっ!」 

「うん、分かった」 

いつの間にか握りしめ合ってた手が、スッとほどけた 
そして私は、あの日の胸の中で言えなかった大切な言葉を、あの日と同じ胸の中で言った 

「私は、アンタのことが好き」 

2人を包んだ3月の風は、どこまでも優しく、柔らかかった




慌ただしい毎日の中で、私はけっこう幸せ 
素敵な仲間と、帰りを待つことができる人がいるから 

「伊織ちゃん、お待たせ!」 

「アンタねぇ……免許取ったのは良いけど、ホントに大丈夫なんでしょうね……?」 

「大丈夫だよ!無事故無違反だもん!」 

「免許取り立てなんだから当たり前でしょう! 
 つーか、ホントに助手席に乗らなきゃダメ?」 

「うん!ダメ!」 

相変わらずこの笑顔には弱いのよね、私…… 

「ちゃんとシートベルト締めてね?」 

「当たり前よ!自殺願望なんてないんだからっ!」 

やよいの運転する車がゆっくりと動き始める 
窓からは、5月の香りが流れ込んできた 

「ノンストップで行ってみーましょ って思ったらまた赤信号」 

車の中響く、やよいの歌声 

ゆっくりゆっくりと走る車の中で、いつしか2つの歌声が重なり始めた 

「ゴーマイウェーイ!ゴー前へー! ガンバーってゆっきましょ!」 

雲も時間も、車に負けないにくらいゆっくりと流れてる 
あんまり急ぎすぎると、アイツを置いていっちゃうかもしれないから 
だからいまは、このままゆっくりと…… 

あの日から始まった、私たちのストーリー 
私を幸せにしてくれる、いくつものメロディー 


お し ま い


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