「あら、貴音ちゃん」

聞き覚えのある丸く柔らかな声に振り返ると、そこには私服姿の小鳥嬢が立っておりました

手には白いびにーる袋
夕餉の買い出しでしょうか?

「ええ。お給料貰ったばかりだから、ちょっと奮発」

「なるほど。今宵の献立は?」

不躾だとは知りつつも、食への興味の方が上回ってしまうわたくし
淑女への道はなんと険しきものなのでしょう…

「今日はすき焼きを」

「なんと!」

す、すき焼きと
そう申されましたか、小鳥嬢!

「う、うん。申しました」

つい先ほど柚塩らぁめん温玉付きを食したばかりだというのに、卑しくも反応してしうわたくし

「えっと…貴音ちゃんも一緒に食べる?」

「い、いえ。わたくしは既に夕餉を済ませてしまった身ですから」

らぁめんを食したことを悔やんだのは、今日が初めてです

「そっか。残念」

「はい、真に」

ぐつぐつと耳障りの良い音を立てて煮える割り下…
まだしゃきしゃきとした食感を残している水菜…
出汁を吸い、鍋の中でふわふわとそよぐしらたき…

あぁ…
なんという"粋"!

「あ、あの、貴音ちゃん?」

「わ、わたくしとしたことが!取り乱してしまいました!」

「…うふふ。今度すき焼きするときは前もって教えるね?」

「はい。是非とも」

「そういえば、貴音ちゃんもこっち?」

そう言って月の昇る方角を指差した小鳥嬢

「帰り道のことよ?」

あぁ、そのような意味でしたか

「はい。そちらの方角です」

「私も。良かったら途中まで一緒に帰らない?」

「えぇ、ご一緒致します」

そういえば、小鳥嬢の私服姿を見るのは初めてかもしれません

黒いじーんずに空色のじゃーじ
そして白いにっと帽

ずいぶんと動き易そうですね

太陽は姿を隠し、辺りはもうすぐ宵の刻

小鳥嬢と肩を並べて歩きながら、取り留めの無い会話を楽しみました

「貴音ちゃん、こっちこっち」

わたくしの手を引いた小鳥嬢が、公園の中へと入って行きます

「この公園を横切るのが近道なの」

公園の中には、仄かな桃花の香りが漂っていました

公園の中心には小さな池
そこに渡された木橋の半ばで、小鳥嬢は足を止めました

「ちょっと休憩」

そう言って欄干に両肘を付き、大きな息を一つ

その横顔を、昇り始めた月が白く照らしていました

「春らしくなってきたね」

「えぇ、真に」

「私にも春が来ないかなぁ」

わたくしに気の利いた返しなどできるワケもなく、

「そのうちきっと」

などと、芸の無い言葉を返してしまいました
やはりまだ幼いのです、わたくしは

「貴音ちゃんには春が来そう?」

「わ、わたくしは別にそのようなことは」

どうやら口というものは、心情の通りには動いてはくれないようです

慌てているのが丸わかりではないですか、これでは

「わたくしには、まだ早いですから…」

そう取り繕うのがやっとでした

「しのぶれど 色に出でけり わが恋は」

「なんと!」

「うふふ。やっぱり知ってるんだ、百人一首」

「…平 兼盛、ですね?」

「正解。私もね、小さい頃にお祖母ちゃんに教わったの」

それにしても、その歌は…

「顔に出ていますか、わたくしは?」

「そこまでじゃないけど…何て言うか、女の勘?」

「そうですか…」

自分では忍んだつもりでも、やはり隠せぬものなのですね

「貴音ちゃんらしいけどね。忍ぶ恋って」

「…持て余してばかりです」

そう
一人で持て余して、一人で泣いて…
そしてそれを、月のせいにしているのです

なげけとて 月やは物を 思はする
かこち顔なる わが涙かな

という、西行法師の歌の如く…

「私も同じだったなぁ、貴音ちゃんくらいのときは」

「いまは違うのですか?」

「いまは…そうだなぁ…謙徳公?」

それはまた随分と…

「侘びしい?」

「はい、失礼ながら」

「うふふ、ちょっと自虐的だったかしら?」

あわれとも いふべき人は おもほえで
身のいたづらに 成りぬべきかな

ただ一人と思っていたあなたに捨てられてしまった私には、情けをかけてくれそうな人は誰も思い当たりません
私はこのまま、独り空しく死んでしまうのでしょう…

という意味の、謙徳公の名歌

ですが小鳥嬢
やはり侘びし過ぎます…

「じょ、冗談よ、貴音ちゃん」

「そうなのですか?」

「さすがにそこまで諦観できないわ。私、まだ若いつもりだから」

「ならば良いのですが…」

はて?
そういえば…

「小鳥嬢はお幾つなのでしょう?」

「…何が?」

「いえ、年齢が」

「まだ若いわよ?」

「具体的には?」

「…二十代後半」

…どうやら、触れてはならぬ話だったようです
響にもよく言われるのです

「貴音、空気読んで」

などと

「人には誰しも秘密があるものよ、貴音ちゃん」

「はい。一つや百個の秘密が」

辺りはすっかり宵闇に包まれ、公園内の電灯が木々を照らしています

わたくしたちの足下を、一羽の鴨がすーっと泳ぎ去っていきました

その際に生まれた波紋が、水面に映えた月をゆらゆらと揺らしています

「貴音ちゃんは」

「何でしょう?」

「どこを好きになったの?」

「えっ?」

「お相手の」

…まさかそのようなことを聞かれるとは…
虚を衝かれるとは、このような状態を言い表すのでしょうか?

どこを好きに…
あらためて考えると、面映ゆいものですね

返答を待つ小鳥嬢を余所に、思案に耽るわたくし

理由は幾つも考えつきます

ですが、一つ一つ理由を挙げることは、無粋なことのように思えました

それに…
どの理由も、言葉にした途端にあわあわと宙に溶けていきそう…

「ですからただ、"愛しているから"と、そう申し上げておきます」

「…うん、貴音ちゃんらしいわ」

「初めてです。このようなことを口にしたのは」

「うふふ。顔赤いわよ?」

「み、見ないで下さい!そのようにまじまじと」

「なんだか私がドキドキしちゃった。プロポーズされてるみたいで」

「わたくしは、はしたないのでしょうか?」

「へ?なんで?」

「女の方から愛を告げるなどと…」

淑女への道がまた遠のいていきます…

「本人に告げたわけじゃないから大丈夫なんじゃないかな?」

「そうなのでしょうか?」

「んーっと、たぶん?」

ご本人に告げるなど、考えただけでも息が苦しくなります…

そんな心情を見透かしたかのように

「大丈夫大丈夫」

と微笑む小鳥嬢

「貴音ちゃんからさっきのセリフ言われたら、どんな男の人もコロってなっちゃうから」

ころっ?

「そうそう。コロコローって」

そう言いながら、右手で宙に円を描いた小鳥嬢

なるほど
ころころ、なのですね?

「勉強になりました」

「私から学ぶと、私みたいになっちゃうわよ?」

自虐的な物言いをしながら、しかしその笑顔はとても愛らしいものでした

「小鳥嬢は素敵な女性です、真に」

「うふふ。一人ですき焼きしちゃうけど、それでも?」

「…ふふ。それでも、です」

僭越ながら、わたくしが保証致します

「さて、休憩終わりにしますか」

「はい」

「そろそろお腹減ってきた?」

「えっ?」

「食べにいらっしゃい。一人より二人だから」

「そのための休憩だったのですか?」

「うふふ、秘密」

…ふふ
わたくしが太ってしまったら、責任を取って下さいね?

「春ね、もうすぐ」

「ええ、直に」

「みんなでお花見しなくちゃね」

「はい、是非とも」

木橋を渡り終えたわたくし達の傍らを、春を乗せた風が通り抜けて行きました

その風を受けて、桃の花が一枚、はらりと

歌のまにまに、花のまにまに

そして

空を渡る、月のまにまに



お し ま い