『……ねぇ、そこでなにしてるの?』

「……誰かいるの?」

『私の家の前で寝ておいて、その台詞はないんじゃない?』

「そう……ボクは今、君の家の前にいるんだね」

『ええ。土砂降りの雨に降られて、みじめに地面とお友達になっているわ』

「……実は、もう動けないんだ。ずっとご飯も食べていない」

『理由はなんだって良いわ。家の前に寝ていられるほうが、私には迷惑なの』

「それは、ごめん」

『良いから肩を貸しなさい。ちょっとだから歩いて』


…… ※ ……


 その日ボクは、土砂降りの雨と言うのは地味に体力を奪うものなのだと、知った。

 途中で財布とともに、なけなしの現金を失くしたことに気付いてからは、ただの絶望ばかりがボクを支配していたんだ。自暴自棄を振り回すように、遮二無二自転車のペダルを漕ぐだけ漕いで、辿り着いた場所は暗闇と大雨の中だった。


…… ※ ……


『これ、タオルと着替え。どうせカバンの中までびしょ濡れでしょ?』

「ああ、ありがとう……でも、これは男物だろう?」

『ごめんなさい、男物なんてウチにはそのくらいしかなくて』

「ボクは女なんだ。気付かなかった?」

『だって髪は短いし、自分のことは”ボク”って言うし、それに……』

「それに?」

『普通、女だったらこんな大雨の中、疲労で立てなくなるまで自転車には乗らないわ』

「……そういうものかな?」

『ええそうよ。そうに決まってるでしょ?』


…… ※ ……


 ボクを”助けてくれた”と言えば聞こえは良いのかも知れないけれど、要は単にボクが疲れて倒れこんでいただけで、たまたま家の前で倒れていたボクを仕方なく自宅に上げてくれた少女は、ごくあっさりとそう言ってくれたものだ。

 確かにそうかも知れない。普通の女の子はぶっ倒れるまで自転車に乗ってたり、実際にぶっ倒れもしないんだろうし、自分のことは”私”と呼ぶのが正しいのかも知れない。

 まだ洗剤の残り香がするバスタオルで、髪の毛の水分を掻き毟るように拭き取る。家の中は、雨粒が叩き付けたりしないし、指先が少しずつ冷たくなっていく感触に襲われたりもしなかった。

 たぶんボクはいま生まれて初めて、自分が”生きている”と言うことを実感した。


…… ※ ……


『……イオリ』

「え?」

『私の名前。あなたは?』

「ボクは……マコトだ」

『マコト? やっぱりあなた、男なんじゃない?』

「そんなことを言うんなら、イオリだって男名前じゃないか?」

『そうなの?』

「そうだよ?」

「ふぅん……」


…… ※ ……


「イオリ」と名乗った女の子は、少し薄汚れた学校指定のジャージみたいな服を着て、依然として濡れネズミ状態なボクのことを、不思議そうに見ていた。

 しかし少しするとそれに飽きたのであろう、くりくりとした大きな瞳は、ぷいっとボクの目線から外れた。


…… ※ ……


イオリ「何も食べてないって言ってたけど、ここにも大したものはないわ」

マコト「何でも良いんだ。お腹に入れて、この雨を凌げるだけでボクは十分だから」

イオリ「……ああ、まだカレーが残ってたわ。マコト、あなたラッキーよ」


…… ※ ……


 そう言いながら、イオリはどこかに頭を突っ込んでいるような、くぐもった声を隣の部屋から発している。ガタゴトと言う、何かしらの塊がぶつかる音もするところを見ると、恐らくイオリは冷凍庫を漁っているのではないか、と思うところまでは想像がついた。

 そのガタゴトする音が止むと、思っていた通り気密性を保つためのパッキンが合わさる音がして、別の何かを開け閉めする、今度はもう少し大きな音がしたのを最後に、ボクは部屋の暖かさがあまりに心地よくて、そのまま安堵するように意識を失った。


…… ※ ……


イオリ「マコト。起きて」

マコト「……んっ? ああ、ボクは寝てしまっていたかい」

イオリ「ええ。ずいぶん疲れていたのね。とても大きないびきを立てて寝ていたわ」

マコト「いびき? 嫌だなぁ、ボクはそんな品のないことはしないよ?」

イオリ「だって私には聞こえたもの。はい、これでも食べてちょうだい」


…… ※ ……


 イオリがボクの目の前に差し出したのは、美味しそうな湯気と匂いが立ち昇るカレーライスだった。しかしその見た目は、少々歪な感情を抱かずにはいられなかった。

 上に掛かっているカレーは恐らく、世界でも一番甘い部類のものだろうと思うくらいに黄色くて、具らしい具はすべて荷崩れてしまったのだろうか、何一つ見当たらない。さらにそのカレーの下には、まるで工業製品のように四角くパックされたような形でご飯が敷かれている。

 イオリは冷凍庫からこれらを取り出し、ただ電子レンジで解凍をして、ほぼそのままの状態でボクに饗応してくれたのだろうと思った。

 だが、そのことを言葉で表明するよりも早く、ボクは飢えた犬のようにカレーライスを頬張った。少しもスパイスっぽさを感じないカレーライス”のようなもの”を胃袋にしまい込むと、また気を失った。



 ――――目が覚めたとき。
     天井のほうからドタバタとした音を聴いたボクは、咄嗟に庭先へ飛び出した。


…… ※ ……


マコト「イオリ!?」

イオリ「あら、おはよう! よく眠れた!?」

マコト「そんなことはどうでも良い! 危ないよ、イオリ!」

イオリ「大丈夫、いつものことよ! 雨に濡れた屋根くらい平気だわ!」

マコト「何をしているんだい!?」

イオリ「アンテナを立てるのよ! だって、こんなに良く晴れているんだもの!」





――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





            晴 れ た 日 に は 、
            ア ン テ ナ を 立 て よ う 。





                            2014 Dram@s 参加作品



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





…… ※ ……


 イオリは、変わった子だった。

 朝に起きて天気が晴れていれば、真っ先に彼女は屋根に向かって、彼女の身体には不釣合いなほどに大きなアンテナを担いで屋根に登る。

 やがて立派なアンテナが屋根に立てられると今度は、駆け下りて来ても朝食を摂ることはなく、無線機に接続されたヘッドフォンを掛けて、慣れた手つきで電鍵を一頻り叩くと、じぃっと無線機を睨み付けながら、昼過ぎまで何かを待っている。

 何も返信がないのだろう、イオリはヘッドフォンを外すと大きく溜息を付いて、やおら冷凍庫から冷凍された何か料理を取り出すと、電子レンジで解凍して食事を摂る。奇妙なことに、彼女の”食事”はいつも流動食のように何もない、ただのスープ状の何かだった。食べ終えるとさっさと皿を洗って、そこからは日によって少し違うけれど、いつもだいたい屋根裏の小さな部屋に篭っていた。決まって僕と進んで話をしようとはしない。

 見た目にしてみれば、ボクよりはきっといくらか幼い、きっと中学生くらいの女の子なのだが、彼女が学校に行く様子はなかったし、彼女以外の住人はこの家に存在しなかったのである。



 ボクは居候に過ぎないが、敢えて言葉を選ぶなら。
 正直なところ、イオリは少し変わっているように思えた。



 イオリは、冷凍庫の中の物は好きに食べて良いと言ってくれたし、どうせ誰もいないのだからと寝泊まりも許してくれた。ただし、この家に布団と呼べるものは一客しかなかったので、ボクは家から背負ってきてようやく乾いた寝袋に包まっていた。

 なによりボクにはお金がなかった。イオリもまた、お金を持ってなかった。


…… ※ ……


マコト「あの、さ……イオリ」

イオリ「なに?」

マコト「これって、きっと……その、ホワイトシチューだよね?」

イオリ「そうね。美味しくない?」

マコト「いや、そうじゃないんだ。野菜の甘味も、チキンの旨味も有って美味しい」

イオリ「それじゃあ、どうして?」

マコト「……なんで、具が入っているように見えないのかな、って」

イオリ「ああ、そのこと?」

マコト「なにか、理由があるのかい?」

イオリ「私、食べているモノがそのモノの形を残しているものは、食べられないの」

マコト「……どういうこと?」

イオリ「よくわからないわ。でも、このシチューにジャガイモや鶏肉が入っていても、
    目に見えてそれがジャガイモだったり、鶏肉だったりってわかってしまうと、
    どうしても、死体を飲み込むみたいな気がして、喉を通らないの」

マコト「……だからイオリは、ボクにだけご飯をくれるの?」

イオリ「ええ、そうよ。だって私、食べられないもの」


…… ※ ……


 明くる朝も、空には雲ひとつなかった。

 イオリは元気よく梯子伝いに屋根によじ登ると、軽やかな足取りで頂上まで登って、大きなアンテナを立てる。ならずっと立てておけば良いのに、イオリは日が暮れる頃にはアンテナを家にしまい込んでいる。

 だから晴れた日には、アンテナを立てる。

 そのアンテナは、いったいどこに繋がっているのかも、わからない。


…… ※ ……


『イオリー!』

イオリ「あー、チハヤー!?」

『ご飯持ってきたんだけどー!』

イオリ「ありがとー! 勝手にやっといてー!」


…… ※ ……


 そんな風変わりな彼女の家に居候しているある日、チハヤと言う名なのであろう来客が有ったのだが、イオリは今日も屋根の上だった。

 来客は勝手を知っているのだろう、当たり前のように玄関扉を横に払うと、居間に寝転がっていたボクと、たまたま目が合った。


…… ※ ……


チハヤ「…………」

マコト「……あ、ども」

チハヤ「あなたは?」

マコト「ちょっと、いろいろ有ってその……居候しているんだけど……」

チハヤ「……そう」


…… ※ ……


 チハヤは最初、ボクのことを見咎めるような目で見ていた。そのことがよりいっそう、ボクが本来ここにいてはいけない人間であると言うことを、強く意識させた。なにより彼女は、ボクと言う存在に深入りしようとする様子もなかったことがその証左だと思う。

 彼女は足早に、玄関からまっすぐダイニングを目指して、ボクと目を合わさないように歩いて行った。


…… ※ ……


マコト「ねぇ。君がイオリのご飯を作っているの?」

チハヤ「……私ではないわ。私の母よ」

マコト「じゃあ、君はイオリの家の冷凍庫に、その具のないカレーやシチューを
    送り届けるだけの係と言うことなんだね?」

チハヤ「……だからなに?」

マコト「いや、ボクもお裾分けになっているからね。お礼を言わないとと思って」

チハヤ「あなたは、何者?」

マコト「強いて言うなら、そうだな……『旅人』と呼んでくれれば良いよ」

チハヤ「……本気で言ってるの?」

マコト「本気もなにも。それ以上、いまのボクを表現できる言葉はない」

チハヤ「……ごめんなさい。私、この村の人間以外知らなくて」

マコト「ボクも人見知りするからね。その気持はわかるよ」

チハヤ「イオリのことは?」

マコト「何日か前の夜に、ボクはこの家の前で倒れたんだ。空腹と疲労でね。
    峠道で雨に降られて、にっちもさっちも行かなくなってしまった。
    それで偶然倒れたのが、この家の前だった。ただの偶然だよ」

チハヤ「そう……」

マコト「……チハヤと呼ばれていたね?」

チハヤ「そうよ。あなたは?」

マコト「ボクは、マコトだ」

チハヤ「……ふぅん、そう」


…… ※ ……


 ボクらがぎこちない会話をしている間に、イオリはいつものようにドタバタと屋根から降りてきて、無線機の前にどっかと座り込んでから、ずっとヘッドフォンを掛けたまま黙り込み始めた。

 以前、この状態で話し掛けたとき、すごく怒られたことを思い出して、ボクはチハヤに目配せをするとリビングから縁側を伝って、音をなるべく立てないように狭い庭に出た。


…… ※ ……


マコト「君に、聞きたいことがあるんだ」

チハヤ「少し? それとも、たくさん?」

マコト「たぶん、たくさん。
    その中にはきっと、答えにくいことも、わからないだろうことも含んでいる。
    だからそのときは、黙って投げ捨ててくれれば良い」

チハヤ「…………」

マコト「イオリの家族は?」

チハヤ「……いまは、いないわ。
    イオリを産んだ母親は、まだイオリが小さかった頃に蒸発したの」

マコト「それはまた、凄絶だね。お父さんは?」

チハヤ「一昨年に亡くなったことになっているわ」

マコト「……『なっている』?」

チハヤ「漁師だったの。でも、ある日いくら待てども船が港に戻らなくて」

マコト「水難かい?」

チハヤ「詳しいことは、未だにわからないわ。
    ただ、イオリの父親が乗っていた船らしい残骸が、港に打ち上がって」

マコト「……なるほどね。そういうことか」

チハヤ「そういうこと、って?」

マコト「イオリの父親は、恐らく船が沈没して亡くなった。
    ただ、決定的な根拠となるものは、未だに見つかっていない。
    だからイオリは恐らく、父親が帰ってくるのを待っている」

チハヤ「……そうかもしれないわ」

マコト「だからイオリは、晴れた日になると決まって屋根の上にアンテナを立てる。
    もしかしたらまだ、遥か沖合に漂流しているかもしれない、父の姿を追って」

チハヤ「…………」

マコト「だけど、知っているんだろう?
    あの無線機はそもそも、電源のプラグはソケットに刺さっていない。
    アンテナが何を受けても、イオリのヘッドフォンに応答は聞こえないことを」

チハヤ「そうだったの……そう」

マコト「なぜ教えないんだい?」

チハヤ「……イオリに教えたところで、どうなるものでもないわ」

マコト「わからないなぁ。いや、君はわかっていて、わからないフリをしている」

チハヤ「私が腹芸をしているとでも言うの?」

マコト「はっきり言うよ、イオリはおかしい。
    晴れた日の朝には決まって朝早くから、屋根の上にアンテナを立てる。
    自分の身体よりも大きな、ただの鉄の塊のような構造物をだ。
    そして、音が戻るはずもないヘッドフォンを何時間も黙って被り続けるんだ」

チハヤ「…………」

マコト「何も応答がない。当たり前だ、無線機に電源は入っていないんだ。
    そして不満気に、流動食のようなシチューやカレーを啜っては、
    屋根裏に篭ってしまって、出て来ようとしない。晴れの日はいつもそうだ。
    イオリは『死体を飲み込むような気がする』と言って、あの流動食を毎日
    何の疑問もなく摂取し続ける。おかしいじゃないか」

チハヤ「だから……?」

マコト「黙ってイオリの望むものを作って、こうして届けていることは、だよ。
    イオリの現状を明らかに、君たちが追認していると言うことだろう?

    彼女はまだ、義務教育を受けるべき年代だ。
    にも拘らず、彼女は学校に行くわけでもなく、
    晴れた日にはアンテナを立て、雨の日はまるで廃人のように寝転んでいる。
    この現状だけでも、おかしいだろう?」

チハヤ「それは――――」

マコト「イオリの望むままにさせておくことが、ボクは正義だと思わない。
    彼女はいつか、父親の死と言う現実を知るんだ。
    その執行日を先送りにすることで、イオリが得することは一つもない」

チハヤ「……あなたに何がわかると言うの?」

マコト「イオリの周辺と君たちの間において、過去に何が有ったのかは知らないよ。
    だからボクはあくまで一般論……いや、ただの『キレイ事』を並べただけさ」

チハヤ「……ヘンな人ね」

マコト「よく言われる」

チハヤ「しばらく、ここにいるつもりなの?」

マコト「できることなら、早々に立ち去りたい。でも、そのためのお金はないんだ」

チハヤ「そう……」

マコト「別にどこかで野垂れ死んでも、ボクは構わないんだけどね。
    ただ、そこまで急峻に、自殺には踏み切れない。それに」

チハヤ「それに?」

マコト「イオリのことが、心配になってきたんだよ。お節介なことにね」

チハヤ「…………」


…… ※ ……


 話が途切れると、チハヤは再び縁側から家に戻って、今度は洗濯を始めた。窓越しに見えるイオリはまだ、無線機の前から動かない。

 ボクは庭から見える景色を眺めた。

 小高い丘から眼下に見える集落から、この家は少し離れて建っていた。その集落から少し向こうに海が見える。首を左右に振ることさえ必要のない小さな村落と、そんなムラからでさえ孤立気味に建っているこの家の間に、ボクにはわかりようのない「なにか」が渦巻いているのは、チハヤの眼の色で察しがついた。


…… ※ ……


チハヤ「じゃあ、私は帰るから」

マコト「ああ、うん。イオリにはそう伝えておく」

チハヤ「別に良いわ。いつものことだから」

マコト「……ねぇ、チハヤ。この村で、ボクが働けるところはないかい?」

チハヤ「働けるところ?」

マコト「手っ取り早く言えば、バイト先だね。路銀がなけりゃ、お発ちもできない」

チハヤ「……漁協に掛け合ってみるわ。ただ、有っても力仕事よ?」

マコト「そうかい、それは助かる。むしろ、力仕事くらいしかボクはできないからね」

チハヤ「じゃあ、あとで電話するわ」

マコト「うん。ありがとう、チハヤ」


…… ※ ……


 その日の晩、ここに来て一度も鳴ったことのないこの家の電話が、生きていることの証明をしてみせた。港に水揚げされた魚を市場へ運ぶアルバイト、早朝に3時間の労働で、日当は2,000円。履歴書もなしにアルバイトができることも、それはそれで不思議だった。チハヤの家はこの村の有力者なのだろうか。

 イオリにそのことを知らせたが、あまり興味はないようだった。


…… ※ ……


イオリ「なんで働くの?」

マコト「お金が必要だからだよ。お金は天から勝手には降って来ないし、ひとりでに
    財布の中で増えたりもしない。ボクが手っ取り早くお金を手に入れるために
    できることは、働くことで対価を得ることだけだからね」

イオリ「そうなんだ。でも、お金を持ってなにをするの?」

マコト「まず、ボクの乗ってきた自転車を修理する。
    それから、ここからボクの家へ帰るために、汽車に乗る代金を払う」

イオリ「それは、お金がないとできないことなの?」

マコト「……うん」


…… ※ ……


 イオリは労働に興味がないのではなく、お金と言う存在が社会に介在していることを、ちゃんとした意味で知らなかった。汽車に乗るのも、自転車を直すのも、タダではできないのだと言う交換原則さえ知らずに、なぜこの少女は、晴れた日にアンテナを立て続けるのか。なぜこのままにしておくのか。

 わからないけれど、ボクにはどうしようもなかった。

 明くる朝、日の出前にボクは走って港まで行くと、そこにはチハヤが待っていてくれて、漁協の人に紹介をしてもらった。見ず知らずの、どこから来たかもわからない風来坊を働かせてくれて、ありがとうございますと頭を下げたら、にゅっと手が伸びて来た。

 それはきっと、よろしく、と言うサインだったのだろうと思った。

 仕事は本当に単純な力仕事だったが、新鮮な魚介類から作った朝ご飯も食べられるし、バイト代はいつも取っ払いだった。それでも、村の中でお金を使うことなんて無かったから、すこしずつボクの財布代わりの茶封筒は厚みができていった。


…… ※ ……


イオリ「ねぇ、マコト」

マコト「なんだい?」

イオリ「仕事、って楽しい?」

マコト「楽しいか、と聞かれれば、うん、と即答はできない。
    力も要るし、朝も早いし、決して楽なことではないとは言えるけどね」

イオリ「お金、貯まった?」

マコト「いくらかはね。もう少しすれば、ボクもここを発つことができるよ」

イオリ「…………そう」


…… ※ ……


 それまでボクに、滅多に関心を払わなかったイオリが、突然そんなことを言うものだから、ボクは少し驚いた。

 イオリのことだから、早く出て行けとも思ってはいなかったろうけれど、ボクがここからいなくなることはそれなりに寂しいことなのだと、彼女が感じているのだとしたら、ボクのほうこそあまりイオリに関心が無かったとも言えるだろう。

 夕食後も屋根裏部屋に篭もらず、イオリは珍しくボクにいろいろと話掛けてきた。


…… ※ ……


イオリ「そう言えば、なんでアンタは自転車でフラフラしていたの?」

マコト「高校、中退(やめ)ちゃってね」

イオリ「せっかく入ったのに? もったいないわね」

マコト「別に、やりたいこともなくて、何となく、みんなが行くから、って言う
    それだけの理由で入っただけで……だから、居づらくてね」

イオリ「それで中退して、自転車で旅行しながら自分探しの旅でもしてるの?」

マコト「さぁ、なんだろうね……それもボクには、よくわからないんだ」

イオリ「……わからないことばっかりじゃない」

マコト「そうだね。そもそも、ボクはなぜこうして生きているのかさえも、
    ボクにはわからない。世の中はわからないことで満ち溢れていて、
    無知の瓦礫の中で、知ると言う空気を求めて喘いでいる」

イオリ「…………」

マコト「……生きたいと望む誰かが死んで、生きている意味がわからないなんて
    平気でうそぶく連中が、何も変わらずに生きている。それが不条理だと
    思えないボクは、なにかおかしいのかも知れないね」

イオリ「そうね。きっとマコトはおかしいんだわ!」

マコト「……ボクは、やっぱりおかしいかい?」

イオリ「そうよ! おかしいのよ! おかしいんだわ! あははははっ!!」

マコト「そうかぁ。ボクはおかしいか! あははははっ!!」

イオリ「あははははははっ!」

マコト「あははっ! あははははっ!!」


…… ※ ……


 初めて見たイオリの笑顔は、あまり楽しげではなかった。



 翌朝、市場での仕事を終えて、事務所で朝ご飯をごちそうになって、イオリの家に戻ろうと事務所を出たところで、チハヤに会った。彼女はきっとボクのことを気にしていて、ボクの出て来るのを待っていたのだろうと思った。

 チハヤが先導する形で、ボクらは高台まで歩いて行く。眼下には海も港も、市場も村も、イオリの家も確認できる。それはそれで、素敵な眺望だった。


…… ※ ……


マコト「チハヤには、イオリもボクも世話になりっぱなしだ。礼を言うよ」

チハヤ「……別に、お礼がして欲しくてやってるんじゃないわ」

マコト「そうか。じゃあ、ボクの当て推量もまんざら外れてはいなかったんだね」

チハヤ「どういう意味?」

マコト「チハヤは、いち早く、されど人道的にボクをこの村から放逐したいんだろ?」

チハヤ「…………」

マコト「理由もなく、さりとて無慈悲に、村の境界から外に蹴り出そうとはしない。
    事を波立てることを選ばず、淀んだ水たまりのままで済ませたい。
    この村のことも、イオリのことも」

チハヤ「…………」

マコト「君たちは、表面上は情の厚い良い人を装っていても、内面は恐れているんだ。
    ボクのような余所者がやってきて、ムラの外の論理を持ち込む流れをね。
    そのことを、一番知られてはいけない人間がイオリなんだ。

    だがボクはイオリといま、もっとも近いところにいる。
    同じ屋根の下で暮らしていれば、どうしたって関係性は持たざるを得ない」

チハヤ「生きることが流れることだとするならば……。
    そうね、淀んで流れることを忘れたドブ川みたいなものよ、この村は」

マコト「……チハヤ?」

チハヤ「おかしいと思うことを、おかしいと言えない。ボウフラの湧くようなドブよ。
    流れて流されて形を失うことを恐れるあまり、善意も悪意もすべて堰き止めて
    流れることを失ったドブ川なの。この村は」

マコト「わかっていて、どうして?」

チハヤ「ボウフラが湧こうと、腐臭がしようと、私たちはこの村の中だけでしか、
    生きていくことはできないわ。淀んだ水の中でしか、生きられない。
    何も疑問を持たない清流が流れ込んでくることは、脅威でしか無いのよ」

マコト「それもまた、”生きている”と言うことか」

チハヤ「あなたには、わからないわ」

マコト「ああ、わからないね。わかりたいとも思わない。淀んだドブ川よりも、
    無駄に勢いよく流れる濁流か鉄砲水でありたい、そう思っているよ。
    だからこそ、淀んだ水たまりもまた”生きる”と言うことだと理解する」

チハヤ「…………」

マコト「でも、イオリは気付いてしまったかも知れない。
    事実で象られた現実を堰き止め続ける堤防を、ボクは壊してしまったかもね」

チハヤ「あなた、まさか!?」

マコト「何も言っていないよ、イオリには。
    恐らく推定され得る暫定的な解釈どころか、事実の断片さえね。
    でも、だからこそ気付いてしまうことは有る」

チハヤ「…………」

マコト「ボクは……早くここから、立ち去らなければならないんだなぁ。
    生きることが、並べて緩慢な自殺だとしても、ボクはもう少し自分らしく、
    生きたいと思う。そのフィールドにするには、ここは狭すぎる」


…… ※ ……


 何かを言いたげなチハヤを残して、ボクは高台を降りた。

 もしもチハヤに、ボクが思っていることをすべてイオリにぶちまけてみようか、と言ったならば、チハヤはどんな顔をするだろうか。そう思うボクは、多少この村に苛立ちを覚えているのかも知れない。素朴さの仮面の下に隠された煙たげな印象を、ボクが肌で感じていないわけがなかった。

 でも、もう少し穏当な手段で、ボクはイオリにしてやれることが有るように思った。


…… ※ ……


イオリ「ちょっとこれ、どうやって後ろに乗るの?」

マコト「後輪から2本、棒が出ているだろ?
    そこに足を乗っけて、ボクの肩に捕まってるんだ。しっかりだよ?」

イオリ「こっ、怖いわよ! ホントに大丈夫なの!?」

マコト「大丈夫。ボクを信じて! 雨の翌日の屋根に比べればねっ!」

  しゃあああああっ。

イオリ「ひ、ひいいいいっ!!」

マコト「怖くなんかないっ!!」


…… ※ ……


 晴れた日の朝。

 アンテナを立てようとするイオリを止めて、ボクは最近ようやく直った自転車の後ろにイオリを乗せた。南から台風が近付いている、今日は電波が届かない。そんな出鱈目で彼女を説き伏せた。台風が来るのは、真実なのだけれど。

 イオリの家を飛び出し、小高い丘から集落の中心にアプローチする坂道を一気に下る。スピードに乗って、ボクらは向かい風に抗いながら、海に向かって爆走した。

 イオリの小さな手が、ボクの両肩にしがみつく。小石を蹴飛ばして、軽く浮き上がる自転車に驚き恐れ、耳元で何度も悲鳴を上げていたけれど、勾配が緩くなって正面の視界に海を捉えた頃には、イオリの悲鳴は嬌声に変わっていた。


…… ※ ……


マコト「どうだい、イオリ!? 気持ち良いだろっ!」

イオリ「ええ、とっても! 私、なんだか風になった気分だわ!」


…… ※ ……


 背中越しにイオリの体温を感じながら、きっといま、イオリはボクが見たことのない、素敵な笑顔を見せてくれているのだろうと、信じた。

 軽快なスピードで沿岸道路を飛ばして、ボクらはいつしか、ちょっとだけ開けた浜辺にたどり着く。港からはもう、10kmは離れているだろうか。自転車を投げ出し、イオリはヘルメットと膝当て、それにサンダルを脱ぎ捨てると、勢い良く海に向かって駆け出す。

 ボクもその姿を見て、イオリを追うように浜辺に向かった。ボクとイオリは、ふざけ合って水を掛けたり、時折やってくる高い波涛から逃れるように海辺を駆け回った。初めて海を見た子供のように、それは飽かず繰り返されたのだ。



 やがて、海遊びに疲れたボクらは、夕陽が沈みゆく海岸を見つめていた。


…… ※ ……


イオリ「マコトは、いつか帰っちゃうのよね」

マコト「……そうだね。ボクはなにせ『旅人』だから。この村の人間ではないから」

イオリ「『旅人』が『村人』になることは、許されないの?」

マコト「それはどうだろう。イオリはボクが『村人』になることを望んでいる?」

イオリ「……わからないわ。マコトは市場に行っているから、この村のことはきっと、
    私より詳しいと思う。でも、そんなマコトが、この村の人間ではない、って
    言うのだから、きっと村はマコトのことを拒絶しているわ」

マコト「そうとは限らないよ。ボクが村のことを拒んでいる場合だってあるさ」

イオリ「マコトはそんな人じゃないと思う。
    そうでなかったら、チハヤだってマコトに良くしたりはしないわ」

マコト「……そうかい?」

イオリ「ええ、そうよ」


…… ※ ……


 イオリは、決して帰るなとは言わなかった。けれどボクは、なんとなくだけど、イオリの中にある淀みを流してやれた気がした。



 でもそれは、良いことではなかった。

 三日後、予報通りにこの地方にも台風はやって来た。車軸を流すように降る雨に、大地をめくり上げんとする風が猛威を奮い、港は今日に限って言えば仕事などあろうはずもなかった。

 だからボクは、油断していたんだと思う。

 屋根の上の瓦を踏みしめるギシギシと言う軋みが耳に入ったとき、まだ夢現だったボクの意識が突然明瞭になった。これは嵐が起こしている音じゃない、誰かが屋根の上にいる音だと、ボクは経験上はっきりわかっていた。

 寝袋を蹴飛ばし、縁側に出る窓を開け放つタイミングが、少し遅かった。



 イオリが、嵐の空から、縁側に降ってきた。


…… ※ ……


マコト「イオリ! しっかりするんだ、イオリ!!」

イオリ「…………」

マコト「どうして……どうしてこんな嵐の中で……っ!!」


…… ※ ……


 取って返して救急車を呼んだが、そのサイレンはなかなか近付いてきてはくれなかった。頭から血を流し、うんともすんとも言わないイオリを、ボクは無心で抱き締めた。大嵐の中ようやくサイレンが門前で止まり、イオリがストレッチャーに乗せて運ばれて行く。

 ボクとイオリを乗せた救急車が、強まる風雨の中、金切り声のようなサイレンを鳴らして走る間、ボクにできたことは、イオリの手をずっと握り締めることだけだった。

 救急に運ばれ、すぐに手術が開始される。ぼんやりと灯った「手術中」の灯りを、ボクはただ見つめていた。そんな折に、ボクの背後でぱたぱたと言う足音を耳にした。


…… ※ ……


チハヤ「マコト!!」

マコト「……チハヤ。どうしてここが?」

チハヤ「狭い村よ。隣の家の朝食のおかずから、向こう三軒の飼い猫が産んだ子供の
    数まで知ってるくらいの中に、救急車なんて来ればすぐにわかるわ」

マコト「……そう」

チハヤ「イオリは?」

マコト「屋根から落ちた。こんな嵐の朝、イオリはきっといつものようにアンテナを
    担いで、屋根に上がったんだろうと思う。晴れた日と決めていたはずなのに」

チハヤ「どうしてそんな……って、あなたに訊いてもわかるわけはないか……」

マコト「でも、もしかしたら」

チハヤ「もしか、したら?」

マコト「それは……ボクのせいかもしれない。
    それまでダムに溜め込まれていた、淀んだイオリの『生』への渇望が、
    溢れんばかりの勢いで噴き出たんだ。しかし、その量はイオリの『生』
    そのものをも吹っ飛ばして、危険水域さえも突破してしまった」

チハヤ「…………」

マコト「きっと、イオリはどこかで気付いていたんじゃないか。
    誰が伝えるでもなく。父親が死んだことを、彼女はわかっていたんだ。
    生きていることを信じたい気持ちと、信じられない気持ちが作った澱を
    彼女はきっと、初めて否定できたんだと」

チハヤ「そんな……どうして……」

マコト「いまなら、話して貰えると思っているよ、チハヤ。
    なぜ君が、いや、君だけじゃないね。君の家族が、だ。
    イオリのことを気に掛けながら、それでも波立てることを嫌った理由を!」

チハヤ「…………」

マコト「答えろっ!!」

チハヤ「……私の母の弟が、イオリの父親よ。従姉妹なの、イオリとは」


…… ※ ……


 チハヤの話してくれた内容は、取り立てて珍妙なことでもなかった。

 イオリの父親は、村の慣習を破って、余所者の嫁を娶った。そうして産まれた子供がイオリだったのだけれど、母親は閉鎖的な村の生活を嫌って、村から消えてしまった。それでも、余所者との間に産まれたイオリは、この村にとって歓迎されざる存在だった。そうこうしているうちに、イオリの父親は海に消えた。

 村に一人遺されたイオリは、それでも鬼子であった。血縁であるがゆえに仕方なく、チハヤの家が、と言うよりはチハヤの母親が、間接的に面倒を見ることで体裁を保ちつつ、遠からず近からずの間柄を続けていた。

 真実はいつだってくだらないし、現実はつねに馬鹿馬鹿しい。そう思った。

 ボクは確かにチハヤに詰問はしたが、ボクは別段彼女を責めたいとは思っていなかった。彼女にはどうすることもできなかったのだ。確かにそうだろう、だから彼女は淀んだ澱の中で生きる覚悟を決めていたのかもしれない。



 手術室の灯りが、予告もなしにふっと消えた。

 扉の向こうから現れたのは医師ではなく看護師で、その看護師は手術室にボクらを呼び寄せた。その後に訪れるものは、容易に想像できた。


…… ※ ……


マコト「……お坊さんは、帰ったかい?」

チハヤ「ええ。あなたまで、初七日に付き合わせてしまって、ごめんなさい」

マコト「いや、良いよ。さすがに、四十九日とは行かないけれど」

チハヤ「…………」

マコト「さっき気が付いたんだけどね。アンテナが上がりっぱなしなんだ」

チハヤ「……そう」

マコト「しまったほうが、良いかな?」

チハヤ「別に、そのままで良いんじゃないかしら。どうせ家ごと取り壊すのだし」

マコト「……そっか」


…… ※ ……


 呆気無い幕切れのあと、形ばかりの弔いをした。

 イオリがどう思っていたのか、何を思って台風の日に屋根に登ったのか、その真意はわからない。すべてはイオリという存在とともに握り潰されて、ボクらにわかりやすい形になることはない。けれど、イオリがあそこまでアンテナにこだわっていたと言う事実は、明確に屋根の上に有った。

 The Fool On The Hill.

 気高い、丘の上の、愚かしくも賢かった少女の物語は、もう終わったのだ。
 ボクもチハヤも、そう思っていた。

 でも、そうじゃなかったんだ。


…… ※ ……


マコト「……なんの音?」

チハヤ「音? 風の音でもないし……っ! ヘッドフォン!?」

マコト「まさか! 無線機に電源は!」


…… ※ ……


 そう思っても、咄嗟に被らずにはいられなかった。

 電源の入っていない無線機の電鍵を、晴れた日にはアンテナを立てて、懸命に叩いていたイオリの、最後の祈りが通じたのだろうか。細切れの電信は、都合聞き取れた範囲で三度繰り返して、ぶつりと切れた。



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…… ※ ……


マコト「そっか……モールス信号。チハヤ、モールスはわかるかい?」

チハヤ「日本語なら、たぶん……」

マコト「つー・つー・と・つー・つー、つー・つー・と、と・つー・と・と、
    と・と、と・と・つー・と・と、と・と・つー、
    つー・と・と・つー、つー・つー・つー・つー、と・と・つー・と・と。

    ……これが三度繰り返されただけだ」

チハヤ「…………っ!!」

マコト「……チハヤ?」

チハヤ「まさか……でも……そんな……」

マコト「チハヤ!」



チハヤ「…………『ありがとう まこと』……って」

マコト「…………イオリ?」


…… ※ ……


 泣き崩れるチハヤのそばで、ボクはただ、主を喪ったヘッドフォンを抱きしめていた。





 晴れた日には、アンテナを立てよう。 - fin. -