弟の名前が刻まれた墓前には常に花が置いてある。ほとんど毎日替えられているようで萎びた物は未だに見たことがないが、各々ここに来る時間が決まっているようで替えている人間も見たことがない。そこに一枚のチケットの入った封筒をそっと置く。
少し強く吹いた風にほんのりと薄く色づく木の蕾が揺れ、その影が形を変えて地を這う。
空が焼けるように赤く、反対側は深い藍に染まる頃に水銀灯は青い光を放ち始める。
遠くから響いてくる小学校の下校のチャイムとどこかから香る夕飯の匂いが墓所の出口に、向かう千早の歩を止める。
その懐かしい匂いは線香の匂いに一瞬でかき消されて、千早はまたすぐに歩を進める。
いつかの髪の毛はもっと、肩ぐらいまで短かった。ぎゅっ、と腰に近い髪を握りしめると冬の残り香が体を覆い、少しだけ寒さに震える。もうすぐ小学校も春休みだろうが、春はまだ遠そうだ。
「今日の夕飯は……コンビニ弁当で良いわ」
独白にしては少し大きめの声。
懐かしい、記憶の中の少年の墓前に来るとこうした独白は止め処無く溢れるがこの声を聴く人間は居ない。少なくとも生きている者は、見えている範囲で。
霊園と言っても所詮は都内にある物でそこから一歩踏み出せば喧騒は普段と変わらずそこに在る。
藍色のレンズを通したような日常。太陽はまだ沈みきってはいないのに酔いつぶれた老人が由縁もよく解らない地蔵堂の塀にもたれかかって路上でうわごとを言っている。
ランドセルを背負った数人の少年たちが駆けこちらへ来るのを千早はゆっくりと歩きながら眺めていた。
季節には合っていない丈のズボンと雑に扱っているのか前からでも解るほどに罅割れて汚れたランドセル。
すれ違う時に先頭の少年が振り返ったことでそのランドセルが千早の右手と腹を打ち、ほんの微かな痛みが広がる。
「ああっ、御免なさい」
笑い顔がしゅん、と秋のヒマワリのように一瞬でしょぼくれる。
「別に大丈夫よ…あなたの方こそ大丈夫だった?」
怒るか悲しむか痛むか、そのどれかだったらどれほど楽だったのだろう。少年たちは困ったような、泣き出しそうな表情を浮かべ千早を見上げる。
愁いを浮かべた千早にどう対応すればいいのか彼らは未だ解らないのだろう。
「なあこの人テレビとかで見たことある気がするんだけど…」
小さな声に大声で反駁が飛ぶ。
「バカ失礼だろ!木更津、えっと」
「如月千早さんですよね…?」
「ええ、そうよ」
一瞬前までの表情は影をひそめ、そこに居たのは小学生とぶつかり愁いでいた少女ではなく笑顔を湛えたアイドルだった。
ぶつかった痛みも罪悪感も忘れて見惚れるほどに笑った顔と夜に負けそうな橙の空が、長く伸びた影が、対照的で悲しい絵画のようで。
逢う魔ヶ時、橙の光が伸びるこの時間帯にはこういう別名もある。薄暗いこの時間は人ではない者と出会ってもそれが人ではないと解らない。
記憶の中の幼い男の子が背負う事の無かった、誰よりも待ち望んでいた鞄を背負った少年とぶつかったこの出来事が弟からの言の葉に思えた。
今日の晩御飯、コンビニ弁当は止めね。この声は鳥のような歌声を発する喉からは発せられず泡と消えた。
夕方のスーパーは結構混んでいる。子連れの女性、老人、スーツの男性。いくらステージで輝こうともこうした場所へいると人に埋もれてしまう。それが嬉しいことなのか哀しいことなのか未だ千早には解らない。
清潔感のある発色の良い野菜が並ぶ棚から季節外れの茄子を吟味して選び取る。
季節など関係ないといわんばかりに年間を通して様々な物が並ぶスーパーマーケットで電子レンジ程の石焼き芋の機械が棚の上に鎮座しているのを見るのは冬の季節を感じる数少ない要素の一つだったが、春に押されそれも撤去されている。
レジに向かう途中、食玩コーナーでしゃがみ話す幼い姉弟に千早は知らずの内に見惚れていた。
その感情が何なのか千早には解らないが懐かしく、悲しいものだと思えた。
レジの列に並びながらミント味のガムを買い物かごに入れる。幼い頃はこの味は刺激が強すぎて涙目になりながら咀嚼したものだ。
会計を終えてスーパーから出ると昼よりも明るいネオンの海が広がっている。その輝きの向こう側、頭上の遥か高いところには目を閉じているのと変わらない色の空が広がっていた。
例えば記憶の中の男の子がここにいて、彼のくしゃりと笑った顔を、それとも泣き顔を。どちらでもいいから見ることが出来たならそれがどんな顔であったとしても千早は笑顔を振りまけただろう。
次の朝が来ることを疑いたくなるほど夜は黒く深く、今が夜だということを疑いたくなるほど地上は光に満ちている。
部活帰りの中学生が自転車で群れを成して目の前を通り過ぎたその先に、笑顔が絶えなかったころの家族が見えた気がした。
マンションの角部屋の自室までのコンクリートの無機質な廊下を歩きながらビルの彼方の三日月を少し見上げる。快晴の空に映っているのはその月以外にはない。
人を大勢詰め込んだ電車の通過する振動がほんの少しだけ春と冬のにおいに満ちた廊下に響く。
引っ越して一年近く経つが千早は未だにダブルロックの鍵がどちらであるかうろ覚えで開錠の度に四苦八苦する。ガチャリガチャリ、と数秒ドアと格闘しその扉を開け放つ。
単身用マンションにしては少し広い玄関には今履いているものとほとんど変らないデザインのスニーカーが一足。そして玄関と対照的に狭い廊下をさらに狭くしているのは未だに開封されていない(それでも減った方だが)、積み重なった引っ越しの段ボール箱。
味気ない段ボールを超えると短い廊下の突き当たりには開封され畳まれ、縛られて数か月も放置されている段ボールが鎮座している。リビングに続くドアを開けるとひんやりと、そして少し埃っぽい空気が千早の肺を満たした。
安物のフライパンで作るのはスーパーで買った野菜と豚肉の炒め物。簡単な物だが数週間料理をしていないと腕も落ちる。出来上がった物は、いつか弟と母のお手伝いで作った物よりもいくらか不恰好に見えた。
味は可、といったところか。機械的に咀嚼して飲み込み、汚れた皿を流しに置いてから踵を返しクローゼットから着替えとバスタオルを持って浴室へ向かう。
冬よりも春の匂いが強くなってきたここ最近の風呂は熱めのシャワーを浴びるだけだ。清潔感のある白いバスタオルで体を拭き、髪を乾かして音楽を数時間聞いてから眠る。
いつも通りの、何も変わらない日常。だが、もしかしたら明日から何か変わるかもしれない。
淡い期待を抱きながら瞼を閉じるとすぐにその意識は深いところへ落ちて行った。
如月千早は夢を見ていた。
それが本当に夢なのか、それとも過去に本当にあったことなのか解らないほど朧げだが夜空が見えた。遠いところに輝きが沢山あって、その中のどこか、数百光年離れたところに特撮ヒーローの母星があるのだろう。
この景色を覚えている。いつか弟と、母と父と家族で見た空だ。あの日の空は明るく、地上は暗かった。
そうして本当に小さかった自分よりも、もっと小さかった弟と舌足らずな約束をした。もう一度このお星さまを見に来ようね、と。
汗でぐっしょり濡れた毛布を握りしめて千早は跳び起きた。はぁ、はぁと荒い息遣い以外は無音だ。
これ以上はもう眠れそうもない。昔の夢など今にしてみれば悪夢以外の何物でもないのだから。
はだけたパジャマもそのままにカーテンを開けると夜明け前の一番深い闇の中で星が輝いていた。この時間帯は流石の都心も目を瞑っている。その輝きの中には何も見えない。
ひたひたと冷たいフローリングを歩むとそれが心地よく感じられた。冷蔵庫を開けるとオレンジの光が少しだけ部屋を照らす。
窓を開けると烏の羽音を掻き消すようにどこからかバイクの音が響いてくるが、風が心地いい。
その風に当たりながらコップに注いだ牛乳を一口飲むと、ベッドにすとんと腰を落とす。
ほのかに甘いその味が心を鎮める。流石にもう少し寝なくてはならないか、とテーブルにコップを置き布団を被るが眠れそうもない。目を閉じ考え事をするとすぐに時間は過ぎていく。
これは厭な時間の中でそれが過ぎるのを耐える千早の処世術だった。一人の、何もすることがない時間は現実が押し迫って来るから一番厭な時間だ。外から自分を守るために作った殻が外圧に耐えられず押しつぶそうと迫ってくる。暗闇を、瞼の裏を見つめて数時間、いつの間にか夜は開け、窓からは陽光が差し込んでいた。起き上がり少し乱れた髪もそのままに温く結露した牛乳を飲み干す。
髪を整えて歯を磨き、着替えて荷物を整えて、直ぐに空っぽの家を出る。快晴の空の下を歩く疲れた顔のサラリーマンたちも千早と殆ど何も変わらないように見えた。最寄駅の改札の向こう、ホームは人でごった返していた。人に流され、目線を向けても頭上の時刻漂さえ満足に確認することができない。尤も毎日機械的に同じ時間に家を出て歩いているのだから何分ごろに電車が来るのかは解る。もう来てもおかしくない頃だ、と手首の時計を確認するとともにビールのCMソングが流れ陰鬱なホームに風を伴って電車が入ってくる。電車が停まり車両から降りる人々が落ち着くと大勢のサラリーマンと一緒に千早はその電車に乗り込んだ。満員の電車に乗っているのは十分にも満たない時間だがその短時間でさえ千早の気を滅入らせるのには充分だった。数駅後のハブ・ステーションで電車を降り、乗り換えのために迷路と揶揄されるその駅を歩いてまた別の満員電車に乗り込む。先ほどよりは幾らか空いているとはいえ窮屈さを感じるほどに混んでいるのは変わりなく、事務所の最寄駅で降りる際には人を押し分けて進まなくてはならない。
その駅から徒歩十分ほど歩くと大通り沿いに小さな事務所がある。狭く古いがきれいに掃除された階段を上がるとそこが765プロダクションの小さな事務所だ。油の少ない扉を押しあけるとぎいい、とそれは情けない悲鳴を上げた。
朝の事務所には小さいながらも清潔感が漂っている。横から差し込む光をほんのわずかに漂っている埃が乱反射して光った。
「おはよう千早ちゃん」
くたびれたソファから立ち上がりこちらへ少しだけ足早に歩み寄って少女は言う。
「ええ、おはよう春香」
少し短めのスカートから覗く足は細いが健康的だ。外から差し込む太陽のような、少し上気して笑顔を湛えた顔と頭に揺れるリボン。下から顔を覗きこむように少し前かがみになって、後ろで手を組むとそのリボンは囁くように揺れた。
「いや~電車乗り遅れちゃって、ラッシュと被っちゃって大変だったよ…」
と深刻さを感じさせない声で続けると少女はアニメのキャラクターがよくやるように頭をひと掻きした。
それにつられて千早も笑みをこぼす。
「実は……このあいだ、定例ライブのチケットが一枚欲しいってプロデューサーに言ったの聞いてたかしら?」
「うん」
「あのチケット、母にプレゼントしたわ。届いているかはわからないけど」
意味深な科白回しだが、その言葉に少女は破顔した。
千早は伏せていた目線を上げて控えめに笑った。
去年の仕事を欲していた夏を思い出す太陽と風が昼を形作っていた。誰が見るでもなくニュースを流すテレビの天気予報曰く「晴れの日が続き、関東地方の一部では二十度を来れる場所もあるでしょう」と情報を流す。綿のような雲が幾らか、高いところを漂っていた。


夕方、765プロの面々と別れ一人になると秋が季節相応に千早を包む。
老若男女皆が帰って行く。仕事帰りの中年男性、町の「憩いステーション」と看板のかかった小さなスペースから笑顔で出ていく老人たち、ランドセルを背負った子供、自転車に幼児と買い物袋を満載させて走る主婦。
週末の定例ライブが千早の胸を締め付けた。墓前に仕掛けたラブレターがいつ想い人に届くのか、それは千早には解らない。
だからこそ家路を急いだ。新しいおもちゃを買ってもらったように顔が上気しているのは昼の会話があったからだ。
足早に、というよりも小走りでコンクリートの階段を駆け上がり、廊下の突き当たりにある自分の家の玄関の前に立つ。西日がドアに千早と寸分違わぬ影を映し出す。ダブルロックの鍵は丁度その紛らわしい鍵穴に収まり滞りなくドアは開け放たれる。
家の中に入ると誰もいないのだから当たり前だが、真っ暗な世界が広がっている。朝開けたままのカーテンを閉めると影なのか実態なのか解らない何かが居るような感覚がした。
真っ暗な世界でならもしかしたら彼に出会えるかも、触れることができるかもしれない。
だが、手を伸ばしても目を閉じても開いても黒しか、影しか見えない。それでも何かないかと目を凝らしていると見えてきたのは何の変哲もない綺麗に整った部屋だった。どこか整いすぎている生活感のない部屋。
しん、とした自分の影も溶けてしまうような黒の中で誰かを、見つかる筈もないのに探してしまうことが止められない。
だがそれは恐らく間違いだ。母は、その何かを探し続けて、探し疲れてしまった。そうして何かが壊れた。
千早も少し探し疲れて胸で浅い息をしていた。冷蔵庫から出した冷えた牛乳をコップに注ぎ少し口に含んで目を閉じる。
流星群の輝きをスローモーションで見たらライブの時のケミカルライトのように見えるのだろうか。その先には弟が待っていてくれるのだろうか。
溜息。
その時になるまでは解らない、再びそう結論付けた千早の頬は初恋の少女のように、少しだけ期待で朱に染まっていた。


その日は待ってくれるでもなく日常に組み込まれてやってきた。晴れの深い青空は何か映画のワンシーンのように高く、冬の面影は見えなかった。ビルに区切られたそれを見上げて電車に乗り込む。土曜の、日が西に少し傾くくらいの時間の電車はほかの時間に比べるとかなり空いている。座席に腰を落とすがその両隣に座る人はいない。ゆっくりと着実に揺れながら定例ライブの会場に近づいていく。幾らかの停車駅を過ぎたところで千早は席を立ちホームに向かい歩を進める。ホームに降りると長袖では少し暑いくらいの日が体を照らすが空気は対照的にひんやりしている。ホームから階段を上がり改札を抜けてライブ会場へ足早に向かう千早の顔には小さな笑みが浮かんでいた。
十数分も歩くと「今の千早」にとってはそこまで大きくはないものの、定例ライブの会場とするとAランク程度、かなりの大きさの会場が有る。
その会場の楽屋には皆が揃っている。衣装に着替えながら隣の少女に千早は目線を投げ掛ける。アイドル衣装でも彼女のトレードマークのリボンは健在だ。
少ない布地のフリルを楽屋の固い椅子に座りつつ弄りながら口を開く。
「千早ちゃんのお母さん今日は来てくれるかな?」
「今日、来てくれるかは解らないけど。……解らないから、良いんじゃないかしら?」
笑顔。
「そういうものなのかな?」
きっとそういうものよ、呟きながら立ち上がって言う。
「そろそろ行きましょ、春香?」
楽屋からステージ袖までの狭い廊下を数人で進み円陣を組む。
「定例ライブ、しっかり成功させるさ!」
「ちょっとひびきん、そーゆーのははるるんの仕事っしょ?」
「そうそう、もうライブ前の掛声ははるるんの仕事って感じだよね」
双子の息の合ったツッコミに少しだけ不服そうにしながらも、
「まあ、春香がいちばん自分たちの事考えてたんだし……今日だけだからね!」
必死に自己主張する格好はその体の大きさとも相まって小動物を連想させた。
「うつー!それじゃあ春香さんお願いします」
太陽のように明るい声がステージ袖に響くと同時に春香が叫ぶ。
「六人だけだけど、今日のライブを思いっきり成功させるよ!765プロ、ファイト―!」
それに全員が応じ一気にステージに駆けて行く。
一曲目、もうお決まりとでも言うべき曲のThe idolm@ster。ダンサンブルな動きと目まぐるしく動く照明、そして観客の熱気がアイドルの体を炙る。大量の照明に照らされていると何一つ動かなくとも汗が出るほどにそこは熱く、そして輝いている。
踊る少女たちは汗を流しながらも笑顔を崩すことは無く、心の底からの笑顔で踊り続ける。一年もレッスンを続けた踊りはもはや芸術と呼ぶに相応しく半ば無意識で輝きを振りまく。
一曲を踊り終え三人が舞台袖に隠れるとダンサンブルな曲が連続で響き出す。ステージで踊っているのは響とやよい、そして真美の三人だ。元気すぎるほどのこの三人に会場のボルテージは臨界点を超えケミカルライトの海が荒れ狂う。
三人が舞台袖に下がるのと同時に春香と亜美がステージに飛び出し歌い、踊る。
それが終わるともうラストから二番目、千早ソロのバラードだ。今までとは変わって落ち着いた重厚感のある歌声が響き青い草原がライブ会場全体に広がる。
ライブ会場の向こう側、青い風の向こうに小さな男の子が居るような気がした。幻だということは解っているのに、その姿は色あせる事も無く最後に別れたのがつい昨日のように、そこに在るようにしか見えなかった。輝きの海を渡り男の子の幻はそこで、消えた。
そして男の子が導いてくれた輝きの向こう側に幾年ぶりかに見た母の小さな笑顔が見えた。歌声が響き、汗が千早の肌を流れ落ちる。
紅潮した笑顔でどこまでも声を張る。曲が終わりその余韻に包まれても千早は動くことができなかった。観客の興奮が痛いほど伝わってくる。舞台袖から残りの五人が走ってテージに並ぶ。
「……次の曲で最後になってしまいました」
爽やかな笑みで宣言すると観客席からえーっ、というお決まりのブーイングが挙がる。それでも千早は輝きの中のたった一人の女性の笑顔から顔を逸らすことは出来なかった。
「自分たちだってもっと続けたいさーでも会場との折り合いが……」
「響さーん、それは言っちゃだめですよ」
会場が笑いに包まれる中でも女性と千早は目線を逸らさずにいた。親子であればこうした目線だけでのやり取りも、普通の関係ならば珍しくは無いのかもしれない。だが、この親子にとってこの時間は幾年ぶりのやり取りだ。
「そんじゃー言ってみよっか」
「千早おねーちゃんよそ見してると置いてっちゃうかんね!」
「ええ、それでは最後の曲になります」
隣の親友に目配せをし、二人で頷くと同時に音楽が流れだす。一種の興奮から覚めた途端の安堵からか、歌いながら、踊りながら千早は涙を流していた。笑いながらの号泣。
目まぐるしく動くライトの元では涙も汗も区別はつかない。堰が崩れたように、外圧から守るために作られた殻が内側に溜め込んでいた涙を流す。
その時の笑顔は澱を取り除いたような、アイドルになってから二番目に輝いているものだった。
上澄みのような笑顔ではない、心の底からの笑顔は偶像などではない等身大の少女で観客を魅せる。それは千早がチケットを贈った女性も例外ではない。
含みのある、ただの嬉しさから来る訳ではない、悲しみでさえ孕んだ歪んだ笑顔がステージの上から一瞬だけ見えた。
歌いながら小さな男の子と幼い頃の千早自身を千早は確かに見た。輝きの向こう側で歌う幼い女の子とたった二人の観客。小さな男の子とそれを見守る母親。
踊りと歌声、そして音楽が止んだ。だが拍手は鳴り止まない。ステージの上のアイドルは皆肩で息をしている。千早は太ももの横で小さく親指を立てる。それに親友もガッツポーズで応え、観客席の女性は一際大きくケミカルライトを振る。
会場がアンコールのコールで揺れた。
「ッ……ははは、それじゃ行くよ準備はいい?」
「はるるん、もちOKに決まってるっしょ!」
「そうだよ!もちもち大丈夫だよ!」
「自分ももちろん行けるさ!!」
「ええ、まだまだ歌えるわ……歌いたいわ」
「私ももっともっともーっと歌って踊りたいです」
「よし、と。それじゃあ会場の皆も準備はいい?」
一際大きく、一際熱くライブ会場全体の空気が震えたのと同時にイントロが流れ始める。
この曲のダンス練習では上手く行かないこともあった、初お披露目のライブでは主役がなかなか到着しないトラブルもあった。それももう半年、まだ半年、どちらで呼んでいいかわからないが昔の事だ。


「アイドルのライブ…あなたのライブがここまで凄いなんて、テレビで見て分かったつもりでいたけど…思わなかったわ」
公園のベンチで語る母子のただの会話だが、この親子にとってその意味は重かった。
「見に来てくれてありがとう」
五年以上もちゃんと二人で会話をしていなかったからか中々続く会話は出てこない。
「娘の晴れ舞台を見ないでおく訳にはいかないでしょう?」
目線を千早に向け微笑みながら言う。その顔は千早の記憶の中の優しい顔と、幼い頃の観客だった時と同じだった。
「ありがとう」
この五文字、これを言うのに千早は突っかかりながら長い時間をかけ、その隣の女性もそれを何をするでもなく待っていた。家族の間がそこにはあった。
「ねえ、お母さん…」
蚊の泣くような小さな声だがその一語一句聞き逃すことなく聞いた女性は目を見開き、そして何かを隠すように下を向いた。
「どうしたの…千早?」
絞り出すような声とともに顔を上げた時、その目は潤んでいた。
「これからまた昔みたいに、普通の親子に戻れるかしら……」
「判らないわ……私はあなたを見ていなかったもの。今さら謝っても時間は戻らないから」
「それでも、それでも私は……あなたを、お母さんをお母さんと呼べるようになりたい」
ゆっくりと千早の方を向いた女性は何かに気付いたように両の目から涙を流し、頷いた。
「ねえお母さん…今度料理を教えてほしいの。一か月後に花見があるのだけれどその時に、友達にごちそうしたいから」
くすりと女性は笑い言った。
「勿論いいわ。でも、母さんも料理練習しないといけないかもしれないわ」
春が近いが夜にはまだ冬が幅を利かせている。寒く澄んだ空には幾らか星が輝いている。
すぐそばの道路を母と姉と幼い弟の三人が仲良く手を繋いで歩いているのが見えた。
「千早……優が望むことなんて判らないけど、これから、今までの分を取り返すくらいに……家族になりましょう?」
「うん、お母さん……」
また荷造りをしなくてはならないかもしれない、と千早は思案する。まあ、捨てて無い段ボールがあるだけ楽かしら、とも。
間違いなく言えるのは暗い部屋にはもう戻れない、ということだ。