目の前には階下へと続く階段。
視界はぼやけ、足取りも覚束ない。
震える身体。
収まらない動悸。
止まらない
――――――涙。
書置きを残し、身支度を整えて事務所を後にする。
身体に染みついた経路を、ぼやけた頭で歩き、気づいた時には自宅のベッドの上に仰向けで倒れこんでいた。
小鳥「どう……して……!」
天井を仰ぎ、未だとめどなく溢れる涙を止める術を持たない私は、ただ掌で顔を覆うしか無く、うめき声のような音をただひたすら部屋中に響かせていた。
頑張る貴女の事“は”好きだった。
ただ、それだけ。
その一言に集約されている。
けれど、それを都合よく解釈した私は浮かれ、そして自滅した。
同性である事に悩んだ時間も、それでも構わないと決めた決意も、想いを打ち明けた時のちっぽけな勇気も。
全ては無駄だったのだ。
なんと滑稽で、なんて哀れなのだろう。
身体中の水分が涙となって流れていくような、長い間そうしていた私は、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。
赤く腫れぼったい眼。
化粧をすればある程度誤魔化せるが、化粧ではこの心の痛みまでは誤魔化しきれない。
私は初めて、会社をサボってしまった。
体調が優れないと理由をつけて。
帰ってきた時のままの格好だったので部屋着に着替え、その後はただベッドの上で膝を抱えながらうずくまる。
時計の短針が天辺を少し過ぎた辺りで、胃が切なそうに空腹を訴えてきた。
小鳥「こんな時でも、お腹は空くのね……」
とてもじゃないが料理などする気分になれなかった私は、近くのコンビニへ行き、適当な弁当を3食分手に取り、会計を済ませると足早に自宅へを引き返した。
暖めもせず、機械的に箸を動かして胃へ食物を入れるだけの作業。
それが終わるとまたベッドの上でうずくまっていた。
枯れてしまったのか、涙はもう流れなかった。
翌日、出社した私のもとへアイドル達が駆け寄ってくる。
その表情は等しく、あの伊織ちゃんまでもが、心配の一色に塗り潰された目を向けてくれていた。
もう大丈夫だからと告げると、安心したような表情へと変わる。
サボってしまったのは心苦しいが、身を案じてもらえたことが純粋に、嬉しい。
ただ、駆け寄ってくれたアイドル達の輪の中に、あずささんの姿はなく、その事実がより一層胸を締め付ける。
無為に過ごした休日でも、頭に浮かぶのはあずささんの姿だけだった。
ステージ上で輝きを放つあずささん。
事務所でおしゃべりした時のあずささん。
様々なあずささんが頭の中を駆け巡る。
そのどれもが、眩しいくらいの笑顔を放っていた。
けれどあの夜、その笑顔を曇らせてしまった。
そうさせたのは、私。
暗い気持ちをひた隠し、ただ仕事に打ち込む。
気がつくと律子さんもプロデューサーさんも帰宅して、私だけが狭い事務所に取り残された。
時計を見ると、すでに日付は変わり、電車もとっくに終わっている。
仕方なく、この日は事務所に泊まることにした。
この日から私はほとんど家に帰らなくなっていった。
時にプロデューサーさんと、時に律子さんと遅くまで仕事に打ち込み、事務所に寝泊まりする日々。
仕事が無い時には手伝うと言って二人の仕事を肩代わりしたりもした。
そうして、気づかない内に少しずつ身体を蝕まれた私は、ある日知らない場所で目を覚ました。
腕に違和感を覚え、目をやると透明な管が腕に付けられている。
意識が判然としないまま周囲を見渡すと、ここはどうやら病院のようだった。
状況が飲み込めずにいると、スライドドアがガラガラと音を立て、開いたところで病室に入ってくる人物が。
小鳥「――――あず、ささん……っ」
思わず溢れた声に反応した彼女は、一度大きく目を見開くとすぐにその瞳を涙で濡らし、私のもとへ駆け寄ってきた。
あずさ「良かった……目を覚ましてくれて……」
小鳥「どう……して……?」
あずさ「音無さん、最後に家へ帰ったのはいつですか?」
私の問いには答えず、逆にあずささんから質問される。
小鳥「っ……一週間くらい前……でしょうか」
私が答えると、あずささんの表情が翳る。
あずさ「音無さんは、事務所の床で倒れていました。お医者さんは過労だって、仰ってます」
震える声で、あずささんが私の身に起きた事を説明してくれた。
それで救急車で運ばれ、今に至る、ということらしい。
あずさ「あと少し発見が遅ければ……どうなっていたか……っ」
小鳥「…」
病室に沈黙が訪れる。
肩を震わせるあずささんと、状況が飲み込めない私。
経緯は分かったが、何故あずささんがここにいるのか。それが分からずにいた。
私としては、フラれたばかりで二人きりという状況に心苦しさを感じていたりもする。
そんな重苦しい沈黙を、あずささんが破いた。
あずさ「――――私のせい、ですよね……?」
小鳥「え?」
思いもかけない問いかけに、素頓狂な声を出すことしかできなかった。
あずさ「私が“頑張ってる貴女は好き”なんて言ってしまったから……。だから音無さんはこんなになるまで無理をしたんでしょう?」
小鳥「私は……」
あずさ「ごめんなさい……ごめんなさい……」
あの日のように顔を覆い、まるで許しを請う子供のように肩を震わせて謝罪を繰り返すあずささん。
小鳥「どうして、謝るんですか……?」
あずさ「……だって……だって……!」
泣きながら謝罪を繰り返すあずささん。
小鳥「謝らないでくださいよ……。あずささんは、なにも悪くないじゃないですか」
あずさ「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
小鳥「やめてください!」
思わず声を荒げてしまった。
もう一度自分の想いを否定されているようで、耐えられなかったのだ。
小鳥「……どうして。どうしてあんな事言ったんですか?」
あずさ「……え?」
小鳥「頑張ってる私の事は好きだなんて。それさえなければ……私は……」
こんなに惨めな思いをせずに済んだ。
言いかけて飲み込んだ。
言えば彼女が傷つくことは明白だろう。
あずさ「……いつも、遅くまで私達の為に頑張ってくれている音無さんは、とても格好良くて、私、そんな音無さんを尊敬してて……!」
慎重に、選びながら言葉を紡いでいくあずささん。
あずさ「私……ただ、お友達として……好きで……だから……!」
そこまで言うと、再び顔を覆ってしまった。
病室には、すすり泣く音だけが響いている。
あずさ「音無さんの気持ちは、嬉しいんです。でも、やっぱり女性同士なんて……自然じゃないです」
その言葉に、何かが音を立てて崩れていくのが分かった。
小鳥「……わかってますよ、それくらい。言われなくたって、それくらい……!」
堰を切ったように次々と言葉が溢れ出してくる。
小鳥「悩んで、悩んで悩んで悩み抜いて、それでもって決めたんですよ!」
あずさ「お、音無さ……」
小鳥「言うつもりなんてなかったのに……。それなのに、好きだなんて言われたら、勘違いしちゃうじゃないですか……! バカみたい……」
溢れ出る言葉と一緒に、枯れたはずの涙が頬を伝っていることに気づく。
こんなものはただの八つ当たりだ。
それも分かっている。
分かっているが、止めることが出来なかった。
最後には、言葉ではないただの声を喚き散らすだけ。
あずささんは、ただそれを泣きながら耐え忍んでいた。
小鳥「……ハァ……ハァ……っ……あっ……す、すみませ……!」
あずさ「……っく……ぐすっ……」
小鳥「私……そんなつもりじゃ……っ」
あずさ「いえ……っく……だいじょ、ぶですから……」
八つ当たりであずささんを泣かせてしまうなんて、自分が嫌になる。
あずさ「…………音無さんの、気持ちは、分かりました。私が、音無さんを傷つけてしまった事も」
小鳥「違うんです……あずささん……」
あずさ「それでも私は、音無さんの気持ちには……応えられません……」
小鳥「………………はい」
そう、泣こうが喚こうがそれは変わりのない事実。
分かっていても、もう一度断じられるのはやはりキツイものがあった。
あずさ「……でも」
小鳥「え?」
あずさ「このまま、音無さんと疎遠になってしまうのも……嫌です」
小鳥「あずささん……」
あずさ「身勝手なのは分かってます。でも、大切な友達を、そんな風に失うのは……嫌なんです」
小鳥「…」
あずささんは、こうなっても私を友と呼んでくれる。
私は何も言わず、次の言葉をベッドの上で待つ。
あずさ「もう、あの頃のように戻ることは出来ないんですか……?」
小鳥「それは…………無理だと、思います」
それが、どれだけ酷なことか。
きっとあずささんだって分かっているはずなのに。
それを願わずにいられないのは、それがお互いのためだと思ったのだろう。
私達の間には何も無かった。
今まで通りの友達で、今までのようにこの想いを封じ込める。
事務所という狭いコミュニティを壊さずにいるためには、それしかないと。
小鳥「残酷……ですね」
あずさ「…」
その一言に、あずささんは俯いてしまった。
小鳥「でも、いいですよ……」
あずさ「音無さん……!」
無論、それを是として受け入れるのではない。
私には私で打算がある。
小鳥「私、普通のお友達に戻れるように”頑張ります”から」
あずさ「それは……」
小鳥「私、頑張りますから」
あずさ「音、無……さん?」
私は、ちゃんと笑えただろうか?
今、自分がどのような表情をしているのか、まるで掴めない。
しかし、不思議と気分は高揚するのが分かった。
小鳥「私の頑張っている姿だけは、好きなんですもんね?」
あずさ「……!」
傍目にはいつも通りに見えるかもしれない関係。
けれど、今から始まるのは、今まで通りではない新たな関係。
今この瞬間において、私は、あずささんを呪縛ともいうべき鎖で縛ってしまったのかもしれない。
小鳥「あずささん、これからよろしくお願いします」
今度はうまく笑えたような気がする。
終
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