関連SS:smile, again.
 冬のロケ現場は、だいたい寒い。
 コートに包まりながら、ADさんが買ってきてくれた温かい飲み物で暖を取る。
「はぁー、もう寒くてやってらんないよー」
「まぁまぁ、冬が寒いのは当然のことですよ。はい、差し入れです」

 そう言って2年目のADさんが手渡してくれたのは、一本の缶コーヒー。
 ミルクもお砂糖も入ってない、いわゆるブラックって言うヤツ。

「おー、気が利くね。ありがと!」

 手渡された缶コーヒーは、どんだけ暖めてたのって言うほどあっつあつだった。
 両手でお手玉のように少し弄んで、握られるようになってからプルタブを引く。

「双海さん、いっつもブラックですね?」
「ん? あー、そーだね」
「私、コーヒー牛乳かってくらいミルクとお砂糖入れないと、飲めないんですよー」
「苦いから?」
「はい。やっぱり双海さんオトナだなー、って。憧れます」

 後輩のアイドル。まだ高校生って言ってたっけ。
 お人形さんみたいな顔をして、結構あけすけなトークをする。
 そんなところが人気の秘訣なんだろうな。りっちゃんのところの、預かりの子。

「別にオトナ気取ってるわけじゃないよ。ブラックやっぱ苦いし」
「じゃあ、どうしてですか?」

 困ったな、そこから先は他人の家なんだけど。
 でももう君は、言う前に小上がりに足を掛けちゃってるよね。

 悪気のない好奇心というヤツが土足で人の心に踏み込んでくるのは、少し痛いよ。

「……修行、だよ」
「シュギョー?」
「そっ、オトナになるための修行。いい女になるためのワンステップ」
「ホントですかー?」

 ああもう、そうなんだよ。そういうことにしておいてよ。

 温かいけれど、喉の奥でクスリみたいに、ほろ苦いブラックコーヒー。
 自分がコドモだった頃の、ちょっとした傷跡を洗うクスリ。



…… ※ ……



「兄ちゃん、ブラックっておいしいの?」

 まだ『竜宮小町』だったころ。そんなことを、兄ちゃんに訊いたんだ。
 兄ちゃんは確かに、はるるんが作ったドーナツやクッキーは食べてたよ。

 でも本当は、甘いものがあまり得意じゃなかった。
 だから兄ちゃんのコーヒーは、いつだってブラック。

 兄ちゃんはその日、りっちゃんの代わりの付き添いだった。
 収録が終わって事務所に送ってもらう車の中で、兄ちゃんは缶コーヒーを飲んでた。

「亜美にはまだ、この味はわからないよ」

 そう言って兄ちゃんは、いつも子供扱いした。ま、実際コドモだったけど。
 だからなのかな。思い切って、兄ちゃんの缶コーヒーを奪い取った。

「あっ、こら! 亜美!」
「へっへー! オトナの味、いーただきー!」

 勢いに任せて飲み込んだごくん、と一口だけのオトナの味は、想像以上だったよね。

「……うええええええ! ニガニガだよ兄ちゃん! お薬みたいじゃんかー!」
「はははっ、だから言ったじゃないか。亜美にはまだ早いって」

 缶コーヒーを亜美の手から取り返すと、兄ちゃんは意地悪な顔で笑った。

 それが、悔しかったのかもしれない。
 その日からがんばって、コーヒーはブラックにすることにした。

 喉の奥に感じる強い苦味が、いつしか芳しい香りに感じられるようになった頃。
 『竜宮小町』は、竜宮城の時間を止めてしまった。



…… ※ ……



「……飲んでみる?」

 後輩の子に、そっとまだ温かい缶コーヒーを手渡した。
 その顔はまるで、過酷な罰ゲームを言い渡されたような顔をしていた。

 やがて諦めたように一口、おずおずと啜ると同時だったね。
 お人形さんのようなきれいな顔は、丸めたティッシュみたいにクシャっとなった。

「うえええええ! にがっ! なんですかこれマジ苦いんですけど!?」
「そっかぁ、君はまだこれが苦いかぁ。じゃあまだ君はコドモだ。良いね?」

 あの時の兄ちゃんのような顔で、してやったりの笑顔を作った。
 彼女が今後、ブラック派になるかどうかは、わからないけれど。



…… ※ ……



 あの頃の仲間がみんな散り散りになって、結構な時間が経った。
 それでも、十年なんてあっという間だね、って兄ちゃんと笑った。

 765プロに残ってるのは、亜美と兄ちゃんだけ。
 ちょっとだけ、勝ったかな、って思ってる。

 みんな、少なくとも、あの頃に一緒だった連中はみんな。
 大なり小なり、兄ちゃんのこと、好きだったと思うよ。

 竜宮メンバーだって、そうだったと思うんだ。あずさお姉ちゃんも、りっちゃんも。
 いおりんは……まぁ、どうだか本心はわからないんだけどさ。

 真面目で優しくて、なんだけど割とヌケてて、それが愛嬌みたいで。
 そんな兄ちゃんのこと、たぶんみんな気にしてたんじゃないかな。

 それが、一時の気の迷いだったって気付いた頃には、コーヒーが飲めなくなってた。
 無邪気なコドモが、パパとは違うオトナに抱いた、単なる憧れと恋心とのカン違い。

 なぁんだ、それだけのことだったんじゃんか。
 そう思えるようになってからも、ほろ苦いコーヒーを飲み続けている。

 苦い。苦いんだ。とっても苦いんだよ、兄ちゃん。苦くて甘いなんてウソだ。
 ずっと奥歯を噛み締めながら、血の味で苦味を誤魔化すだけの、自分へのウソ。



…… ※ ……



 『竜宮小町・大復活祭』の楽日。楽屋に兄ちゃんが来てくれた。
 差し入れのジュースとケーキを持ってね。気が利いてるよね、兄ちゃん。

「ほれ、亜美の飲み物はこれな」

 手渡されたのは、ブラックの缶コーヒー。
 いおりんもあずさお姉ちゃんもりっちゃんも、みんなきょとん顔で亜美を見ていた。

「アンタ意外と、オトナなもの飲むのね?」
「亜美はいおりんと違って、オトナだかんね」
「なんですってぇ!?」

 みんな一頻りに笑ったところで、兄ちゃんがメイキングの撮影カメラに気付いた。

「あ、ごめんなさい! ここカットでお願いします! 事務所NGなんで!」

 楽屋に撮影チームが入ってることなんて、兄ちゃん知ってたはずじゃん。
 十年経っても、どっこかヌケてんだよねぇ。しっかりしてよね。

 挨拶を済ませた兄ちゃんは、昔の思い出話をするわけでもなく、帰ってった。
 話したいこと、いろいろ有ったと思うんだけどな。ないのかもしれないけど。

 兄ちゃん、ヌケてっからね。
 でも、そんな兄ちゃんが良かったんだよ。それはカン違いでもウソでもなくて。



…… ※ ……



「……休憩終わりまーす! 双海さん、スタンバイでー!」
「あーい! いま行きまーす!」

 少しずつ冬の空気に冷やされて、ぬるくなった缶コーヒーを一息に呷る。
 苦いとはもう思わないけれど、そう思わなくなったことが、却って苦い。

 舌で感じる苦味よりも、もっと苦くて苦しいものだ。
 なりたかったオトナになるんじゃなく、オトナに「なってしまった」ことへの懺悔。

 急ごしらえのゴミ箱代わりの段ボール箱に、空き缶を投げ入れた。
 ないっしゅー、今日も良いコントロールだね!

「……オトナになっちゃいけないよ、オトナになるんだよ」
「へ? いや、さっぱり意味わかんないんですけど!?」

 目を白黒させる後輩ちゃんにコートを預けて、春先の薄い衣装に身を震わせる。
 それでも少しずつ、風上は北から南に変わりつつあって。


「……やだなぁ。また春が来るよ」


 この番組が放送されるころ、画面の向こうは、きっと春なのだろうと思った。





<fin.>


関連SS:10年後m@s special ―― 10年後の「竜宮小町」
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