急いでいる心の内を気にすることもなく、電車はゆっくりとホームにすべり込んだ。
時計を確認すると、針は3時21分を指していた。

ドアが開くと、気持ち小走りでホームの階段を目指す。
『ご乗車ありがとうございました。東京、東京です』
そんな聞きなれた放送を聞く余裕もなく、ひたすらに階段を下りていく。
隣のホームの階段を上がろうとすると、ベルが鳴り始めた。
まずい。そう思って階段を一段飛ばしで上る。
多少見苦しいかもしれないが、仕方ない。

『お待たせしました、8番線普通沼津行き発車します。ベルが鳴り終わりますとドアが閉まります』
階段を上がると、左側に見慣れた色をした古そうな電車が沼津の行先を出して発車待ちをしていた。
グリーン車を避けて隣の車両に乗ると、数秒でベルが鳴り止んだ。
『8番線、ドアが閉まります。ご注意ください』

さらに短くベルがなると、そのままドアが閉まった。
間に合ったという安心感を抱き、小さくため息をつく。
ゆっくりと動き始める景色を見ながら、後の車両へと進んでいく。
いつもの号車、そしていつもの席へとやってくると同じ制服の少女がいた。
その前へ立ち止まると、そこにいた相手が顔を上げる。

「隣、いいかな」
「……どうぞ」
少女はそれだけ言って、再び本に視線を戻した。

「ありがとう」
それだけ言って、隣の席に腰掛けた。
電車の二人掛けの席は少々狭い。少しだけお互いの身体が当たる。
それがまた帰り道という感じを思い起こさせ、間に合ったという安堵感に再び小さくため息をつく
すると、視界に何かが入った。
顔を上げると、隣から小さなタオルが差し出されているのが見えた。
「千早ちゃん?」
「髪の部分、少し汗かいてます」
走ってきたのだから、多少は汗をかいたのだろう。
「え? あ、ごめんね、ありがとう。自分で持ってるから大丈夫だよ」
「そうですか」
千早は残念がることもなく、タオルを鞄に閉まった。
何かに引っかかったのか、鞄を閉じるまで少し時間がかかっていた。
「走ったんですか?」
「うん、ちょっと間に合わなそうだったから……」
髪を軽く拭いて、ハンカチを制服のポケットにしまう。
「別に走らなくても次の快速に乗れば追いつくじゃないですか」
「う、うん、そうなんだけどね……」
『まもなく新橋、新橋です』
何を返そうかと考えているのを邪魔するように放送が鳴った。
結局放送に遮られるようにして、二人の会話はそこで終わった。
帰宅ラッシュにはまだ早い時間の新橋は、それでもそこそこ乗る人がおり車内には数人の立ち客ができた。

『ご乗車ありがとうございます。普通列車沼津行きです。列車は11両で運転し、全ての車両が終点沼津まで参ります』
掠れたような放送が鳴る中で、そろそろ見えるだろうと前方に一瞬だけ見える東京タワーを探した。

列車は沼津に向けて進んでいくが、二人の間には会話はない。
床下からの走行音だけを聞きながら、いつもと同じ時間を過ごす。

品川、川崎、横浜と都市部を通り過ぎてだんだん高い建物がなくなっていき、人も少なくなっていく頃には今日の復習も終わり暇になってきた。
鞄を開けると、今朝買ったお菓子の残りがあった。
それの一つを取り、無言で千早に差し出してみる。
すると、千早が顔を上げてこちらを見る。
「萩原さん?」
「食べる? 残っちゃった」
千早が無言で受け取った後、小さな声でいただきます。と言って袋を開けた。
半分押しつけたようなものだから、感想は聞かなかった。
代わりに自分も一つ取り、袋を開けた。

『ご乗車ありがとうございました、平塚です。快速列車熱海行きの退避を行います。発車までしばらくお待ちください』
電車がゆっくりとホームに入ると、車内の半分近くの人間が立ちあがった。
ドアが開くと同時にそれらの人が降りていき、車内が静かになった。
何分もせずに、隣のホームにこちらとは違う真新しい列車がやってきた。
『熱海より先、沼津方面へお急ぎのお客様も隣の快速熱海行きをご利用いただくと終点で静岡行きの接続がございます』
乗客が減った車内からさらに吸い寄せられるように車内の乗客が向かいの電車へ乗り換えていき、こちらの乗客がほとんどいなくなった。

快速を先に送ってからこちらも発車した。
平塚を出発すると山が近くに見える。この風景を見ると、帰ってきたような安心感が出てくる。
『ご乗車ありがとうございました。まもなく、大磯です』
その放送を聞いて、千早が本を閉じた。
本を鞄にしまい、立ちあがった。
「では、また明日」
「うん、またね」
千早が頭を下げた後、振り返ってから列車を降りて見えなくなるまでこちらを見ることは一度もなかった。


二人の間柄は元々何の関係もない。ただの他人である。
部活に所属しているわけでもないし、学年も違う。
学校ですれ違っても挨拶程度しかしない。
お互いの家の場所も知らないし、電話番号も知らない。
ただ同じ学校に通っていて、通学に同じ電車を使っていただけの関係でしかない。
そんな間柄も気づけば1年半続いた。




次の日は時間に余裕が出来た。まだ1本前の電車が発車してすぐだから10分弱はあった。
余裕を持って歩いて乗り換えたが、いつもの席に千早がいなかった。
その内来るだろうと雪歩は席で教科書を開いた。
発車ベルの音に気づき顔を上げたが、千早はいなかった。
とうとうそのままドアが閉まってしまった。

道中教科書や参考書に目を通すが、横にいつもの人間がいないことが気になって集中できない。
何度参考書を開いても、次の駅に着く前にはもう外を見ている。
「隣失礼します」
そう言って会社帰りのような女性が品川から隣に座ってきた。
いつもと違う人が隣にいるということが、何故かとても緊張した。
その人が横浜で降りるまでの間、参考書の文字は一文字も頭に入らなかった。

とうとう3ページも進まないまま平塚駅まで来てしまった。
いつものように乗客の大半が降りるか快速のほうへ流れていくが、快速からこちらへ来る客はほとんどいない。
そんな中今日は珍しく快速から乗客が来たと思ったら、雪歩の前に立ち止った。
雪歩が顔を上げると、千早が立っていた。

「……隣、良いですか?」
「うん!」
千早がゆっくりした動作で雪歩の横に座る。
そこで一つため息をついた。
「今日はどうしたの?」
「HRが思ったより長引いてしまって……」
千早から目を合わせようとはしない。
千早は気まずそうに鞄から本を出そうとしたが、途中で止めた。
「そうなんだ、珍しいね」
「すみません」
「ううん、気にしないで」
隣の大磯駅までは5分もかからない。
今から本を読んでも仕方ないと思ったのだろう。
雪歩もそう思って、参考書を鞄にしまった。

暫くして貨物駅を通り過ぎる辺りで、横からの圧力を感じた。
「千早ちゃん?」
振り返ると、千早が寄りかかってきていた。
「……」
目を閉じて、呼吸の時だけ動いている。
これは俗に言う……
(千早ちゃん、寝ちゃった?)

『ご乗車ありがとうございました。大磯、大磯です』
その放送が流れたと同時に、千早が飛び上がるように起き上がった。
「千早ちゃん、大丈夫?」
「あ、その…… ごめんなさい」
千早が気まずそうに下を見る。
そして表情を隠すように手で髪を整える。
「ううん、疲れてたんだね」
「失礼します」
ドアが開くと、千早が早足に電車から降りていった。



翌日の昼休み、珍しく二人が学校内ですれ違った。
雪歩が購買へ向けて歩いていると、ちょうど購買へ行ってきたのであろう千早がいた。
千早が雪歩に気付くと、驚いたように一度足を止めた。
「千早ちゃん、こんにちは」
「……こんにちは」
千早は目を伏せて早足で歩いていった。
「あ、あの……」
千早は雪歩の呼びかけに応えることもなく、最後には走るように廊下を通り過ぎていった。
昼休みのはずなのに、廊下には雪歩一人だけになっていた。


帰りの沼津行きは雪歩一人だった。
千早は何かの拍子に間に合わなかったのかと思ったが、後続の快速にも乗っていなかったらしく平塚からも乗ってこなかった。
忙しかったのだろうかと思ったところで、昼間のことを思い出した。
避けるように走っていく姿、思えば昨日の別れもそれに近いものだった。
(嫌われちゃったのかな……)
『ご乗車ありがとうございました。大磯、大磯です』
大磯駅に着いても、乗っていた車両は誰も降りることなくドアが閉まった。



翌日の帰りは遅くなった。
東京まであと1駅というところで線路内人立入と言って止められ、東京に着いた頃には沼津行きが動き出している頃だった。
仕方なく快速に乗ろうとホームに上がった時、前方に見覚えのある後ろ姿が見えた。
(千早ちゃんだ!)
もしかしたら同じように足止めをされていたのかもしれない。
雪歩は千早のいる方向へと歩き出した。
ところが、千早はいつもの号車で止まらなかった。
(あれ? どうしたんだろう?)

すると、千早は迷うことなく隣の号車へと入っていった。
自分も行ってみようかと思ったが、いつもと違う場所へと歩いていく千早を追いかけている内にとあることが頭をよぎった。
(千早ちゃん、一緒に帰るお友達ができたのかな?)

雪歩が様子を見ようといつもの車両に乗って隣の号車を見ると、千早は一人だった。
特に誰かと待ち合わせするような素振りもなく座っていた。
千早が一度ホームを見た。まるで何かを確認するような動きだった。
その後前を向こうとした時に、隣の車両にいる雪歩と目が合った。
まるで信じられないものを見るような目だった。

見つかってしまっては仕方ないと、雪歩は千早の前へとゆっくり歩き出した。
「えっと……」
言葉を考えていると、先に千早のほうから切り出した。
「……どうして?」
「え?」
「どうして、ここがわかったんですか?」
後をつけてきた。とは言えなかった。
必死に言い訳を考える。
「あ、えっと、見つけたのはたまたまだよ? ほら、さっき電車が遅れていつもの電車間に合わなかったの」
「……」
「それで快速に乗ろうとしたら千早ちゃんがいたから、今日は千早ちゃんと帰れるって思ったら千早ちゃんこっちまで来てたから」
「……」
「その、もしかしたらお友達と帰ってるのかなって……」
即席で嘘が思いつかず、結局本当のことを話してしまった。
つくづく自分は嘘が下手だと思う。

「……どうぞ」
「え?」
「もうすぐ発車しますから、とりあえず座ってください」
千早に促されるまま二人掛けの隣に座る。
新しい電車はいつもの電車ほど身体が当たらなかった。
しかし慣れた人間が隣にいるからか、不思議と安心感があった。

快速はいつもの普通電車より軽い音を立てて走りだした。
その快速電車が隣の有楽町駅を通過しようとした時、唐突に千早がつぶやいた。
「ごめんなさい」
「え?」
最初、何を言われたのかがわからなかった。
それくらいに千早の声は小さかった。
いつもの電車だったら走行音で聞こえなかったかもしれない。
「その、……昨日から気まずくて」
「えっと、私何かしちゃったかな?」
何かをした記憶はない。ただ、自分が何とも思っていないことが彼女には不満だったのかもしれない。
「いえ、ただ……」
「ただ?」
『まもなく新橋、新橋、お出口は右側です』
会話を放送で遮られた。
いつも聞くのとは違う自動放送は、いつもの放送よりも格段に聞きやすかった。
それに遮られた恥ずかしさか、千早は気まずそうに雪歩から視線をそらした。
そして放送が終わる頃に小さい声で呟いた。

「人前で寝ることがなかったので、なんだか恥ずかしくて……」

今まで千早という後輩は隙のない子に見えたが、彼女も普通の高校生だったのかもしれない。
それが妙に嬉しくて、笑みが零れた。
「ふふっ」
「……っ、そうですよね。馬鹿だって思いますよね」
そう言って、千早は顔を伏せた。

勘違いされて拗ねてしまった。
雪歩はどうしようか少し迷って、何かを思いついたように千早の肩に頭を乗せた。
「きゃっ、萩原さん?」
千早が驚いて顔を上げて雪歩を見た。
雪歩は気にするころもなく、そのまま目を閉じた。
「平塚に着いたら起こしてね?」
「……はい」
寝ようとする人間に何か言うことを諦めたのか、千早は大人しく鞄から本を取りだした。




「萩原さん、起きてください」
そう言われて目を開けると、駅に到着するところだった。
「あれ?」
起き上がると、千早が立ちあがった。
「もう平塚ですよ」
「うーん…… 千早ちゃん?」
頭が起きていない状態の雪歩は、結局千早に引っ張られるような形で快速を下りて隣のいつもの普通に乗り換えた。
歩きだして、ようやく通学中に電車内で寝ていたことを思い出した。
雪歩が普通電車のいつもの席に座ると、それを確認してから千早も座った。
「しっかりしてください」
「ご、ごめんね千早ちゃん……」
「あ、その、……ごめんなさい」
雪歩が顔を伏せると、千早も気まずそうにうろたえた。


暫くお互いに無言だった。
『ご乗車ありがとうございました。大磯、大磯です』
いつもの掠れたような放送を聞いて、千早が立ちあがった。
そして振り返り、雪歩に一礼した。
「では、また明日」
そう言って降りようとした千早の手を、雪歩がつかんだ。
「萩原さん?」
「……明日は、この電車に乗ってるよね?」
千早は少し固まった後に、小さく頷いた。
「はい」
「約束だよ?」
そう言いながら、雪歩は手を離した。

千早が降りて数秒でドアが閉まった。
ゆっくり動き出す電車内から、階段へと向かっている千早が見えた。
いつも通りかと思っていたが、そこで千早がこちらを見た。
今までなかったことに驚いていると、千早が軽く会釈した。
それに応対するように、雪歩が軽く手を振った。
あまりに突然のことにそれしか出来なかった。

明日はもう少しだけ話をしてみようか。
一人になった雪歩は次の駅までの間、そんなことを考えた。