やよい「伊織ちゃん、おっはよー!」

伊織「あら。おはよう、やよい」

やよい「今日も伊織ちゃん、右から鼻水出てるけど大丈夫?」

伊織「何言ってるのやよい、私はいつだってバッキバキにぜっちょーゴーよ!」

やよい「うっうー! 今日も伊織ちゃんは馬鹿ですー!」

伊織「誰が馬鹿ですって!?」


  がちゃっ

響「はいさーい! って、やよいと馬鹿伊織だけか」

伊織「だから誰が馬鹿だって言うのよ!?」

響「馬鹿伊織は、馬鹿伊織だろ! 文句はその垂れた鼻水拭いてから言え!」

伊織「だから! このスーパー・エキセントリック・シアトリカルな伊織ちゃんが
   馬鹿だなんてこと、あるわけないでしょうが!」

やよい「三宅裕司さんですー」

響「じゃあ馬鹿伊織! 7の段言ってみろよ!」

伊織「ふっ……ふーんだ! そんな簡単な問題、私にはお茶の水女子大よ!」

やよい「お茶の子さいさいだねー」

伊織「い、い……行くわよ! 見てなさい! しち・いちがしち、しち・に……
   じゅう……さ……し! しち・さん……えーっと……えーっと……」

響「おやぁ? 早くもギブアップかぁ、馬鹿伊織ぃ♪」

伊織「う、うるさいっ! しち・さん……えっと、18、19、20……ちょっと!
   黙って見てないで、やよいの指も貸しなさいよ!」

やよい「伊織ちゃん、伸ばした指を折り返せばまだ数えられるよ?」

伊織「そ、そうね! そのくらい、わかってたわよ! 20、19……あら、やよい。
   掛け算なのに数が減ってしまったわ」

響「……もう、その辺にしておけ。馬鹿伊織」

伊織「なによ! 九九なんか覚えてなくても、新堂が一瞬で暗算するんだから!」

  だだっ ばたーん

やよい「伊織ちゃん! どこ行くの、迷子札も持たないで! 伊織ちゃーん!」

  ばたばたっ ばたん

響「……はぁ。今日も伊織は、馬鹿伊織のままか」



  がちゃっ

小鳥「あら、おはよう響ちゃん。どうしたのそんな暗い顔して」

響「んー……伊織が、な。今日もまだ、馬鹿のままなんだ。九九の7の段も言えない」

小鳥「そう……伊織ちゃん、まだ馬鹿のままなのね……」

響「確かにいまの伊織は馬鹿だけど、根っこは伊織のままなんだ。だから、こうして
  毎日小馬鹿にすれば、いつか怒りで元に戻ると思ってたんだけど……7の段言え
  なくて、悔しくて事務所飛び出してったんだ」

小鳥「あの日の出来事が、すべてを変えてしまったのね」

響「なんてことだ……このまま、このまま伊織がずっと馬鹿だったらどうするんだ!」

小鳥「響ちゃん……」

響「イヤだぞ、自分。もう、あんな伊織、悲しくて見てられないぞ!」グスッ

小鳥「大丈夫。きっといつか、伊織ちゃんは元に戻るわ。それまでは馬鹿伊織ちゃんを
   みんなで支えてあげないとね。大丈夫、だってみんなは、仲間なんだから」

響「ぴよ子ぉ~~~!」

小鳥(……どうしよう。響ちゃんも、微妙に馬鹿っぽいわ)



  がちゃっ

やよい「ただいま帰りましたー」

伊織「あら、響じゃない。おはよう!」

響「さっきのこと、もう忘れたのか!」

やよい「いまの伊織ちゃん馬鹿だから、事務所から駆け出した時には、なんで出てった
    のかとか、全部覚えてなかったんですー」

小鳥「……どういうことなの、日に日に重症化していくなんて」

伊織「さて今日の仕事は、っと……ねぇ、やよい。これなんて読むんだったかしら?」

やよい「『ばんぐみしゅうろく』だよ」

伊織「これは?」

やよい「『しゃしんさつえい』だね」

響「漢字の知識も、果てしなく落ちていっているぞ……」

小鳥「お医者さんはなんて?」

響「脳や神経に異常は見られないし、なにか精神的なものじゃないかって。獣医が」

やよい「響さんもお医者さんに行ったほうが良いかなー、って」



  がちゃっ

千早「おはようございます」

やよい「千早さん、おっはよーございまーす!」

伊織「あら、おはよう千早」

千早「高槻さんも、馬鹿水瀬さんもおはよう。今日も元気そうね」

伊織「アンタにまで馬鹿って言われる筋合いないわよ! むきー!」

響「千早もやっぱり、見ただけでまだ伊織が馬鹿だってわかるのか?」

千早「青っ鼻垂らしてる水瀬さんが、まともに見えるわけがないわよ」

小鳥「拭いても拭いても、いつの間にか垂れているのよね……」

伊織「んー、仕事までヒマね。テレビでも見ようかしら。あれ、点かないわね」

やよい「伊織ちゃん、それはエアコンのリモコンだよ」

千早「…………くっ、痛々しくて見ていられない」

響「よくわかるぞ、その気持ち」



  がちゃっ

律子「おはようございまーす」

あずさ「おはようございます~」

伊織「あら、律子にあずさじゃない。おはよう」

律子「伊織! またアンタはそうやって青っ鼻垂らして! 拭きなさいちゃんと!」

あずさ「はい伊織ちゃん、お鼻ちーんしましょうね~」

伊織「んー!」チーン

やよい「あずささんと伊織ちゃん、まるでお母さんと子供みたいですー」

小鳥「やよいちゃん、それはダメよ。あずささんが傷付くわ」

あずさ「いま遠回しに私のこと、disりましたか~?」

律子「やれやれ、伊織は今日も馬鹿伊織、か……」

響「二人とも、伊織のことはもう諦めたのか?」

あずさ「諦めたって言うより、いまの伊織ちゃんを受け入れるしかないですし……」

律子「治す方法が有るなら、どんな大金積んだって治すわよ水瀬財閥が。でもその方法
   さえもわからない、原因すら掴めない。だったら、受け入れるしかないのよ」

伊織「あはははっ、この芸人面白いわね~」

やよい「伊織ちゃん、それただのゴリラだよ?」

律子「……でも……伊織」グスッ



  がちゃっ

亜美真美「ぐーっどもーにん!! 今日も秋晴れの良い朝だね!」

伊織「なんなのよアンタたちは、朝からうるっさいわねぇ」

亜美「お、いおりんか?」

真美「ホントにいおりんか?」

伊織「伊織ちゃんよ、正真正銘スペルマウリセンデリヘルな伊織ちゃんよ!」

やよい「伊織ちゃん、スペシャルウルトラデリシャスだよ」

真美「ホントにいおりんなら、真美たちの合言葉に答えてみろー」

亜美「穴が有ったら」

伊織「入れたい」

真美「腐っても」

伊織「食べる」

亜美「後は野となれ」

伊織「ヤマトよ永遠なれ!」

亜美真美「やっぱりいおりんだー!!」キャッキャッ

やよい「今日の伊織ちゃんはキレッキレですー」

他の人々「…………」サメザメ



  がちゃっ

真「おっはよーございまーっす! 菊地真、ただいま参っ、上っ! へへっ」

響「あー、右の本格派が来ちゃったよ……」

千早「水瀬さんがあんなことになってから、顔を合わせたことなかったのに……」

伊織「あら、馬鹿真じゃない。相変わらずノータリンで元気そうね!」

律子「いまノータリンなのは、アンタよ」

真「なにをぉ! 雪歩から聞いてるんだぞ、伊織も馬鹿になったらしいじゃないか!」

伊織「だからみんな私の何がどう馬鹿だって言うのよ!」ズズッ

あずさ「伊織ちゃん、啜らないでちゃんとちーんして」

真「いまの伊織ならわかるだろう? 何の理由もなく、馬鹿だ馬鹿だと言われ続ける
  ことの惨めさが! この事務所の中で誰よりも馬鹿である烙印の重さが!!」

亜美「まこちんは何と戦ってたの?」

伊織「わからないわ! なぜなら私はアンタと違って、馬鹿じゃないからよ!!」

真美「だから馬鹿だっつってんじゃん、馬鹿いおりん」

真「伊織はまだ気付いていないようだね、じゃあ仕方がない!」

小鳥「真ちゃん待って! ここで無用な争いをするのはやめて!!」フンスフンス

やよい「音無さんの鼻息がお馬さんのようですー」

真「これから事務所に来た人間に、問題を出させる。答えられないほうが馬鹿だ!」

伊織「望むところよっ!!」

響「そんなこと望む伊織なんて、やっぱり馬鹿伊織だぞ」



  がちゃっ

春香「おはようございまーす」

真「春香っ!」

伊織「問題を出しなさいっ!!」

春香「…………へ?」

千早「春香、いまこの二人は『事務所最馬鹿』を争っているの。乗ってあげて」

春香「乗れないよ! まったく脈絡わかんないし、私も事務所来たの久し振りだし!」

響「中学生レベルの知識で良いんだ、頼むぞ春香」

春香「んー……じゃあ、三角形の面積の公式は?」

律子「春香、それ小学校の算数」

真「余裕だねこのくらい! 馬鹿伊織はどうなのさ~?」

伊織「さ、さ、三角形くらい、どぉーってことないわよ! って言うか、やよい!
   『めんせき』って何のコトだったかしら?」

春香「い、伊織!? ど、どうしちゃったの!?」

小鳥「驚くのは無理ないわね……実は伊織ちゃんは……」



――――1週間前。



伊織「……アンタたち、何してんのよ」

亜美「ほら、はるるんって何もないところでは転ぶけど、何かあるところでは転ばない
   とか言う都市伝説があるじゃん?」

伊織「信じるも信じないもアンタたち次第よ!」

真美「だから、こうしてバナナの皮と言う古典的なトラップを仕掛けた場合、はるるん
   が転ばなければ、都市伝説は本当だったんだ! って言う検証番組をだね」

伊織「いまどき素人ユーチューバーだって、もう少しマシなコンテンツ作るわよ?
   それに春香だって馬鹿じゃないんだから、こんなくだらない罠なんかに――――」

  ずるっ ごちん

亜美真美「い、いおりーーーーん!?」



小鳥「……と言うことがあって」

春香「馬鹿になった理由まで馬鹿すぎる!! ってか私をハメようとしてたの!?」

真「春香! そろそろ僕が正解を言って良いよね!?」

春香「好きにすれば良いじゃない!」

真「半径×半径×3.14!!」

千早「……真。それ、円の面積」

真「……あれ?」

律子「って言うか高校生なんだから、πr2乗とか言いなさいよ……」

響「ドヤ顔してたよなー、真なー。あれカッコ悪いぞ」

真美「まだ『めんせき』って何よ、って言ってるほうが可愛かったね……」

伊織「でしょお!? やっぱり伊織ちゃんは馬鹿じゃないってことよね!」

亜美「いや、馬鹿だけどね」



  がちゃっ

真「くそっ、でもいまのは引き分けだ!」

伊織「そうね、勝負が付かないのも困るわ。第2問、かみんぐ!」

貴音「……いったい何をしているのですか、二人共」

真「ボクか!」

伊織「私か!」

いおまこ「事務所最馬鹿は、どっちか!」

貴音「何を言っているのですか。伊織、貴方はもう馬鹿でいる必要はありませんよ」

響「何を言ってるのかわからないのは、貴音のほうだぞ」

小鳥「もしかして、伊織ちゃんの馬鹿を治す方法が?」

伊織「私は馬鹿じゃないって言ってるでしょ! うきーっ!!」

やよい「もう馬鹿がイヤなら猿ってことにするよ、伊織ちゃん」

貴音「伊織、この薬を飲むのです」

伊織「……何よこれ」

貴音「存在しないと言われていた妙薬、その名も『馬鹿に付ける薬』です!」

全員「「「えええーーーーっ!?」」」



真「ちょ、ちょっと貴音! それ本当に効くの!? もしかしてボクの馬鹿にも!?」

響「お前のために探してきたわけじゃないと思うぞ」

千早「って言うか、真は気にしすぎだと思うわ……」

貴音「そうですね。この『馬鹿に付ける薬』の効果、最初から伊織で試すのも危険。
   まずは真で試して、効果が有るようなら伊織にも与えましょう」

あずさ「さらっと真ちゃんのこと臨床実験台みたいにしたわよね?」

真「これを3錠飲めば良いんだね?」

やよい「すごいお薬なのに随分安直ですー」

春香「って言うか、真、それ飲んだら死んじゃうかも知れないんだよ!?」

真「馬鹿のまま死ぬか、馬鹿じゃなくなって死ぬか……結局人生なんて、死ぬまでの
  暇つぶしでしかないのなら、ボクは……ボクは、この3錠に賭けるよ!」

律子「なんでアンタってそう何事も刹那的なの」

真「」ゴクン

真美「あ、飲んじゃった。飲んじゃったよまこちん」

真「……これは……すごい、すごい”力”を感じる……っ!!」

亜美「別のモン覚醒してないっすかコレ」

  ぴかーーーーっ

全員「「「うわああああああっ!?」」」



千早「いまの……光はいったい……?」

響「真! 真、大丈夫か真!?」

真「……うん。別になにも変わってない気がするけど?」

律子「レコンキスタ終了」

真「1251年」

貴音「ラ行変格活用」

真「有り・居り・侍り・いまそかり」

千早「正弦関数の加法定理」

真「sin(α±β) = sinαcosβ±cosαsinβ」

真美「量子系の干渉が環境との相互作用によって失われる現象」

真「量子デコヒーレンス」

伊織「誰がデコヒーレンスよ!」

亜美「君のことじゃないよ、馬鹿いおりん」

あずさ「……効果覿面みたいですね」

やよい「真さんが真さんじゃなくて、菊地さんに見えてきました~」

春香「距離感が遠くなっただけじゃない?」



貴音「さぁ、次は伊織。貴方の番ですよ」

伊織「…………じゃない」

貴音「なんと?」

伊織「私……私は…………私は、馬鹿なんかじゃないっ!!」

やよい「伊織ちゃん!」

伊織「みんな私のこと、寄ってたかって馬鹿馬鹿って言うけど……私は馬鹿じゃない!
   馬鹿になんか……馬鹿になんかなってないわよっ!!」

千早「水瀬さん……」

やよい「あの、貴音さん。私も、このお薬を伊織ちゃんに飲ませるのは、反対です」

小鳥「やよいちゃん、どうして?」

春香「ちゃんと効き目があることは、真が勇気の人体実験で証明したじゃない」

真「人をいきなりモルモットみたいな扱いしておいて、酷い言い草だな君ら」

亜美「真っ先に食い付いたのもまこちんだろーよ」

やよい「私、どっちかって言うと馬鹿だから、いっつも伊織ちゃんに迷惑ばっかり
    かけてて、でも伊織ちゃんが馬鹿になったら、いつもより近くにいるような
    気になれたんです。伊織ちゃんともっと友達になれた気がするんです!」

響「やよい……」

やよい「伊織ちゃんは否定してるけど、いまの伊織ちゃんは本当に馬鹿です。でも私、
    そんな伊織ちゃんのことも好きだし、むしろいまのほうが好きなんです!」

小鳥(フンスフンス)

響「そのボイスレコーダーのデータ、あとで消すからな?」



律子「……ダメよ、やよい。馬鹿伊織とは、もうさよならしなければいけないわ。
   伊織、これは賢い貴方がよりいっそう賢く可愛くなれる、世界の妙薬よ?」

春香「律子さん、なんでそんな悪い顔してるんですか?」

真美「りっちゃんは普段からあーだってばよ」

やよい「伊織ちゃん、騙されちゃダメだよ! 伊織ちゃんは賢くない、馬鹿だよ!」

千早「この短時間のウチに、私達は何回『馬鹿』と言う単語を耳にしたのかしら」

真「向こう半年分くらいは、繰延資産になるかもね」

亜美「なんか賢いまこちん、微妙に腹立ってくるな」

律子「ダメよ、伊織には元に戻って貰わなきゃいけない。だって、そうしないと……」

響「……そんなよっぽどの覚悟が?」



律子「ただでさえ少ないツッコミが、私だけになるでしょおがっ!!!!」

全員「……そうですね」



伊織「……わかったわよ。飲めば良いんでしょう?」

やよい「伊織ちゃん……」

伊織「やよい、随分と迷惑を掛けたみたい。ごめんなさい」

やよい「……そんなこと、言わないでよ。さよならみたいに、言わないでよっ!!」


伊織「さよなら、やよい――――」ゴクン

やよい「馬鹿伊織ちゃああああああん!!!!」


春香「やよい……」グスッ

真美「なんで泣いてんのアンタ」

亜美「てかどうしたら泣けるのコレ」



――――数日後

伊織「おはよう!」

やよい「あっ! おっはよー、伊織ちゃん!」

伊織「相変わらず朝早いわねぇ……そう言えば今日、現場一緒だったかしら?」

やよい「うん、だからいつもより早起きしてきたんだよ!」

伊織「ゆっくり寝てなさいよ、別に入り時間まで早くならないわよ?」

響「……すっかり元通りになって数日、いまとなっては少し寂しいかな」

律子「何がよ。馬鹿伊織のこと?」

響「うん。あの頃は、馬鹿で馬鹿で困ってたんだけど、いまになって思えば、それでも
  可愛いモンだったと思うぞ。むしろ、本当の伊織らしい伊織は、ああだったのかも
  知れない。そんな気がしたんだ」

律子「財閥のご令嬢が、あんな馬鹿なわけないでしょうが」

響「馬鹿じゃないから、馬鹿になりたいときが有る。そういうことだぞ」

律子「……そうかもね。さ、伊織、やよい。現場行くわよ!」

やよい「はーい!」

伊織「やれやれ、入りが早かったから、少し車で寝かせてもらうわ……」

  ばたんっ



響「……さよなら、馬鹿伊織」






追伸:真ちゃんはあの後、3時間くらいで元に戻りました(小鳥)

<Fin.>