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10年後m@s



電球、トイレットペーパー、ティッシュ、芳香剤、タオル……エトセトラエトセトラ。
多くの備品ではち切れそうなビニール袋をそれぞれ一つずつ提げ、俺と律子はドラッグストアを出た。
自動ドアをくぐり、冷え冷えとした店内から抜け出す。すぐに、物凄い熱気が身体中にまとわりついた。
アスファルトを反射して耳に届く蝉の声。陽炎。排気ガス。暑さの象徴のオンパレードだ。
早くもグロッキーの俺とは対照的に、律子はしゃんとしてその涼しい顔を崩さなかった。
「冷房に慣れちゃうと、もう外には居られないな」
「本当。早く戻りましょう」
「冷房のきいてない事務所にか」
俺達の経営している事務所では、クーラーに代わって、扇風機が懸命に事務所の温い空気をかき混ぜている。
あの風通しの悪い空間を想起するだけで、汗が滲むような気がした。
「まるでサウナだ。いつ倒れるか分かったもんじゃない」
「あのね、前も言ったけど、歌って踊るアイドルが冷房に慣れたら、それこそ本番でぶっ倒れますよ」
「そうは言うけど、彼女らが事務所に居るのってほんの少しの間じゃないか。みんなレッスン行って、残るのは俺とお前だ」
「そうですね」
「キーボード叩いてるだけで汗だくになる」
「気合が足りないんですよ」
「気合……冗談だろ」
半ば呆れて律子を見た。真面目な顔でこちらを見返す彼女に、思わず溜息が漏れた。
彼女は基本的に理屈で物事を考えるが、一方で、こういった精神論で押し進む面も持ち合わせていた。
今も昔もそれは変わらない。
「一夏中クーラーをつけた年のこと、覚えてる?」
「あれはひどかったな」
当時の快適な事務所を思い出す。そして月末に届いた電気料金の明細も一緒に思い出した。
二人して目を白黒させてたっけ。そして、その次の年から一切クーラーを使わなくなった。
クーラーは彼女に深いトラウマを残したのだった。
「……いっそクーラーを撤去すれば、未練もなくなるんじゃない?」
「やめてくれ。視覚的な涼しさすら奪う気か」
深く溜息をついて、項垂れた。律子は俺の肩をぽんと叩き、そしてくつくつと笑った。
何年経っても意地の悪い奴だ。

店から事務所の扉まで、歩いた時間は十五分にも満たないのに、俺は汗だくになっていた。
だらしのない、と小言を言う律子だったが、彼女もうっすらと汗をかいていた。
律子も暑いんだな。俺は少し安心した。
律子の手から荷物を受け取る。
律子はポケットから鍵を取り出して、手早く扉を開けた。
室内の空気が溜息のように吐き出され、頬を撫でた。
「はい、ありがとう」
俺の手から先ほど預けた荷物を取って、律子はさっさと中へ入っていった。
俺は躊躇しながら、ゆっくりと後についていった。
「……外と変わらないな。むしろ、中の方が暑いかも」
「心頭滅却、ですよ」
「それにしたって暑い」
俺は荷物をデスクの上に置いて、ソファーに寝転がった。ネクタイを緩めて、手で顔を扇ぐ。
律子は呆れた表情で俺を見たが、特に何も言わなかった。
彼女は手際よく、買ってきた備品、消耗品はしかるべきところに整頓し、それから窓を開けて、扇風機の電源を入れた。
外から入る風、扇風機が送る風が身体をそよそよとくすぐる。
「驚きだな」
「ええ。人ってこんなにぐうたらになるんですね」
「そっちじゃない」
クーラーが無くても意外と涼しいってことだ!

律子のあてこすりをいつものように切り返すのも億劫だった。
ぼんやりと天井を見つめる。ところどころにシミが出来ていた。
扇風機の羽が回るぶうんという音、外から入る静かな風の音、そして事務所を歩き回る律子の足音。
久々に、時がゆっくりと流れていた。気怠く、心地よく。
不意に、紙の破れる音がした。頭を律子の方へ向けると、彼女は日めくりカレンダーの前で佇んでいた。
そういえば、カレンダーは日めくりが良い、と、律子に言われたことを覚えている。
事務所を設立してすぐ、必要なものを揃えに二人で買い物に行った時だった。
彼女曰く、一日一日を確実に歩んでいる感じがして良い、とのことだった。
律子は千切ったカレンダーをごみ箱に捨てて、俺の傍まで来た。
「ね、十年ですよ」
「何が?」
身体を起こして、ソファーの場所を空ける。
「ここを立ち上げて、今日で丁度十年」
律子は空いたスペースに腰を下ろして、感慨深げに言った。
「……もうそんなに経つか」
「何だか、あっという間ですね」
「そうだな。今、律子はいくつだっけ」
「この間誕生日だったのに……もう忘れたんですか?二十九ですよ」
「じゃあ、もう三十路一歩手前か」
「嫌な言い方」
律子はくすりと笑った。自分の年齢なんか、全く問題で無いように。
一瞬間、思わず見とれた。すぐに気が付き、話題を変える。
「……しかし、十年経った今、また買い出しをするとは」
「あら、いいじゃない。それだけ部下に任せられるようになったってことだし」
「こうやってのんびりする時間もあるしな」
「そうね……」
会話が途切れたのを境目に、少しの間、沈黙が自分たちを取り巻いた。
自然と、それまで意識されなかった音が耳をくすぐり始める
蝉の声が遠くでしている。車の走っていく音。二人の呼吸。自分の心拍。
静かなようで、うるさい音の数々。素敵だった。

「お前、結婚は考えてないのか」
「何ですか藪から棒に」
「もう二十九だろ?」
「まだ二十九です」
「何だって良いけどさ」
「私、結婚に関しては心配なんかしてませんから」
「どうして」
「あーあーあー。自分の言ったこと忘れてる」
結婚に関して、俺は律子に何て言ったろう。
首をひねる俺を見て、律子は一つ咳ばらいをした後、少し声色を変えて言った。
「俺が責任を持って……」
「あー、ストップストップ。……皆まで言うな。大丈夫。思い出した」
思い出す、と同時に恥ずかしさが込み上げた。そして先ほどの軽口を後悔する。
「責任はいつ頃取っていただけるんです?プロデューサー殿」
「……近いうちだ」
「ふふ、期待しないで待ってるわ。……ダーリン♪」

おわりつこ