「久しぶりだね」

「…事務所でよく会うだろ?」



「そうじゃなくて、こうして会うのが」

コートを脱いで脇に置いてから数分、ボクらの間には何故か会話は なく、さっきから耳に入ってくるのは店内に流れる洋楽と周囲の客の話し声や食器音だけだった。そしてなんとなく気まずい中、テーブルを挟んで向かい合う二 人の沈黙を先に破ったのは春香の方で。それに釣られてボクもようやく言葉を発する。意外にもスムーズに喉から出てきた返答に自分が内心安堵してるのに気付 いて、実はボクはこの状況に少しばかり緊張していたのかもしれない。

「たしかに、そうかもね」

「うん」

でも、今更ながら何を話せばいいんだろう。
ボクらの関係は現在は友達という形になっているけど、その背景はしばし複雑だ。かといって仲が悪いとかでも無く、嫌いな訳でも無い。だからこそお互いに無事、別の恋人が出来てから二人きりになるのを無意識に避けてたのかも。

「で、どう?」

子 猫みたいな笑みを浮かべながら春香はコーヒーのカップを手に取る。その細い指にボクが理由無く触れる権利はとうに消え去ってるけれど、それが惜しいと思わ なくなったのに時の流れを感じた。今はあいつがボクに代わって春香のために角砂糖やらミルクやらをカップに注いでやっているんだろう、ボクに出る幕はな い。

「そうだね…」

短く言葉を切り、正面に座るかつての恋人の頭で揺れるリボンを見る。相変わらず持ち主と一緒に楽しげにふるふるしているそれが真隣にあった日々が胸の奥で僅かに息を吹き返すけど、今積み重ねている最中の思い出がそれを遮った。
目の前の少女とは全く別の笑顔が、もう既にボクの角膜に深く焼き付いてるんだ。

「幸せだよ」

呼び名も、声も、身長も、髪型も、趣味も全く別の少女に今ボクは恋をしている。

「そう…私もだよ」

それは春香だって同じだ。

「それは良かった」

「ふふ」

「なんかさ、ボクら、互いとは正反対の相手を選んだよね」

琥珀色の液体から昇る湯気は段々薄くなっていく。最近はお茶ばっかだから、コーヒーの勝手をよく知らない。

「本当にね」

あっさりと肯定した言葉は、ボクらの関係が一度崩壊した瞬間をきっと忘れていない。

「千早、どう?」

「んー」

「え、なんかあったの?」

「いやぁ、ていうかさ」

頬が幸せそうに紅く色付いてるのを確認して、一先ず安心する。少なくとも嫌な事があった訳ではないらしい。

「なんなの?」

「千早ちゃんさぁ、真以上にへたれすぎ」

「…」

「じれったいよ、本当」

えへへ、と小さく身を捩る姿は正しく恋する乙女とやらで、じれったいと漏らす割には不満そうには映らない。

「まだそういう事、してないの?」

身を乗りだして気持ち小さめの声で尋ねれば、同じようにテーブルに肘を置いて小声で返してくる。付き合っていた頃ならキスでもしていた距離だ。だけど当然、しない。

「そういう訳じゃないけど」

「頻度?」

「少ないねぇ」

けたけた笑う。彼女の手の中に収められたカップはいつの間に空にしたのか、底が見えていた。

「ふぅん…」

レスとかそういうのでは無くて、単に相手が不器用なだけだろう。本人からそんな感じはしているけど、ボクが比較に出されるのはやや心外だ。あの頃よりは成長したつもりだから。それを彼女が知る術はもう口頭で伝える他にないから、信じて貰えるかは分からないけど。
あの頃とは何もかも違うんだ。

「真とは無かったけどね」

何気なく、そう言い放たれた。だからボクも何気なく言い返す。

「そういやそうだね」

ボクのカップはまだずしりと重い。砂糖を入れすぎたみたいで、あんまりに甘くて全然喉に流し込めない。

「あった方が良かった?」

今日春香が今着ている薄い桃色のセーターはとても似合っていて、それを見るのは初めてだった。

「いや」

どこから漏れ出すのか、自然と笑みが溢れてくる。ボクは今、喜んでいるんだろうか。それなら何に対してなんだろう。

「…あれで良かったんだよ」

春香も笑う。今度は子猫というより、子どもの成長を見守るような、優しい微笑みだった。

「うん、私もそう思う」

嵌め込まれたガラス越しに外を伺うと、空は藍と橙が入り混じった色をしていた。

夕暮れを見ると無性に好きな人に会いたくなる。勿論、それはもう春香じゃない。春香にとっても、ボクは違う。
居ても立っても入られず腰を浮かしながら言ってみた。

「そろそろ、出ようか」

無言で頷いた表情は、妙に満足そうだった。


結局ボクらはコーヒー一杯で店を出た。ボクのカップにはぬるい液体がまだ半分ほど残ったままだったけど、あれ以上飲む気にはなれなかった。
お互いマフラーに口まですっぽり覆われてて、声が少しくぐもってる。

「ねぇ、真」

駅までの道を並んで歩く。身体と身体に開けられた若干の隙間は、多分一番ベストな距離だ。

「私ね、真のお陰で恋を知ったんだと思うんだ」

春香が立ち止まる。それから少しだけ遅れてボクも歩みを止め、後ろを振り向く。

「真と付き合ったから、あの時真を好きになったから、今…千早ちゃんと付き合えてるの」

風に煽られて髪の毛がはためく。身体は凍えているけど、声は震えてない。

「だから…ありがとね、真」

辺りはもうほとんど闇だ。だけど春香の姿はその中でもはっきり見えている。

「…ボクも同じ事、考えてた」

完全に交わらずに離れたボクらの絆も、互いの今後もまあ、多分そんな感じなんだろう。
決して悪いようにはならないと、思う。

「好きって気持ちを知ったのは春香のお陰だ」

「そっか」

「うん」

「良かったぁ」

「へへ」

少し照れ臭くて、目を伏せる。その瞬間に、昔こうして恥ずかしがる姿が可愛くて好きだと言われたのを思い出した。
伸びる自分の影を凝視する。背中に残り僅かな夕日を感じた。

「意外と気が合ってたのかもね」

「でもそれと恋愛は関係ないみたい」

「ほんと」

だってやっぱり、今ボクらが好きなのは、全くの正反対な相手だから。

「あ」

「どうかした?」

「買うものあるの、忘れてた」

「付き合おっか」

「いいよ、別に」

「大丈夫?もう大分暗いけど」

ボクの言葉に、春香は携帯をポケットから取り出してその笑顔の横で軽く振った。

「千早ちゃん呼ぶもん」

「ああ…いいね」

「それじゃ、バイバイ」

「うん」

「真!」

足音は今来た道を遡る。

「ん?」

「次は彼女さんも一緒に、ね!」

マフラーを口元から指でずり下げて、大声で叫んだ。ボクの相手が誰かなんて知ってる癖に、わざわざそんな言い方をする彼女が愛しくなる。でもそれはもう、愛ではない。
頬がにやけるのを感じて、負けじとボクも同じ動作をする。そして元気よく返す。

「そっちこそ!」

吐き出された息は白く染まって闇に溶けた。