海岸沿いの遊歩道には、別れの歌が流れていた。


 正直なところ、いい歌だとは思うが好きじゃない。
 出会いが有れば別れがあるのは、事の道理だと理解はできる。
 だから私は今まで、新たな出会いを極力拒んで来た。
 いつか別れる時が来るときに、その出会いが素晴らしく素敵であればあるほど、その別れが辛くなる。
 それでも人は、出会わなければならず、それでも人は、別れなければならなかった。
 そんなサイクルが、生まれて死ぬまで続いていることが、耐えられない。
 私はその循環機構の内側から、ひっそりと退出させていただきたかった。

「――千早ちゃーん!」

 遠くで、私を呼ぶ声がする。

 遊歩道の向こう、船着場に近いところに、その人は立っていた。
 白のデニムジャケットに、ピンクの小さなリボンが二つ。
 まるで春の日差しのように、柔らかく温かい笑顔。
 出会った頃から変わっていない、彼女のお決まりの勝負服。

「遅くなってごめんね、春香」

 私は、彼女の名を呼ぶ。

 ああ、そうね。
 私は運命と向き合うことを恐れ、いずれ訪れる別れを恐れていた。
 ただただ、私は見えない予測に怯えていただけなのだ。
 春香と出会うことを、私は本当なら避けなければいけなかった。
 彼女は、私にとってはまぶし過ぎて、それでいて愛らしかった。

「懐かしいね、ここ」

 まだ候補生だった頃、私は養成所で春香と出会った。

 何もないところで突然転ぶ、不思議な女の子。それが第一印象。
 なぜか組になることが多かったが、私はあいにくと人付き合いが得意ではない。
 しかし春香は、易々と私の懐を強襲してきたのである。
 カウンターアタック? いえ、そんなものではないと思う。
 一言で言えば、あれは「奇襲」の類じゃないか。

「……そうね。何かって言うとここに来ていたわね」

 ここは二人の、事務所非公認の練習場でもあった。

 ダンスと言うものがよく分からかった私。
 歌に感情を込めると言うことに不得手だった私。
 観客を意識して、自らをアピールする術を持たなかった私。
 レッスン場で学んだこと以上に、私は春香からそういったことを吸収していた。

「千早ちゃんには鍛えられたなぁ。レッスンの先生以上にね」

 皮肉だろうか? だとすると、春香も出会った頃から随分変わった。

 春香は何に於いても、普通の子だった。
 百人が百人、間違いなくそう誰もが答えるだろう。
 そう、普通の子「だった」のだ。
 だが彼女は、決して自分を安く売らなかった。
 普通であることを売りにする狡猾さも持たず、かといっておかしなキャラも作らず。
 彼女は自らが無為自然であるがままで、メディアに対峙したのだ。

「……春香は、強い人だと思ったわ」

 そう言うと、春香は人差し指をこめかみに当てて、そうかな、と言う顔をした。

 強くなければやっていけない。それはこの業界の理だ。
 私たちは養成所から準所属に昇格し、プロデューサーなるものも付いた。
 彼は明確にビジョンを示した。私たちはデュオとしてデビューすると。
 その時、彼は冷酷に言い放ったのだ。
 春香は、アンダーカバーに回ってくれ、と――――。

「まぁね。正直辞めよっかな、って思ったりしたんだけどね」

 私の言わんとするところを理解した春香が、少し困った顔で呟く。

 メインだろうがサブだろうが、プロデューサーは私たちに等量のレッスンを課した。
 毎日のように「宿題」を出すあの男に、正直辟易したことだってある。
 私たちは機械じゃない、人間なんだ。そんな無理ばかり言われても困ると。
 しかし彼は、当たり前のように言うのだ。
 機械なら改良すれば良い。人間なら成長すれば良い。違うか? と――――。

「デビューしてから最初は、泣いてばかりだったわね」

 私は泣けと言われても、すぐに泣けない偏屈者になっていた。

 感情を爆発させることで自我を保とうとするほうが、事程左様に健全だとは思う。
 私はそれが許されていなかった。いや、許されていないと思い込んでいた。
 しかし、春香は泣く。なぜ? 疑問符を付けなければ自分の中で適切な処理ができない。
 憎しみよりも、悲しみよりも。怒りよりも、嘆きよりも。
 その先に春香が見ていたものはなんだったのだろう、と考えた。

「……悔しくってね。どうして私、こんなに何もできないんだろうって思って」

 そう、春香は普通なんかじゃない。

 どこまでも高く、高く、それこそ天空に輝く太陽みたいに輝きたいと望んでいた。
 普通の人間は、それを夢想することは有るだろう。だが、リアライズしようとは思わない。
 なぜ? 不可能だからと諦めているからだ。
 そういう意味で、春香は「諦めの悪い女」でも有った。

「春香の御蔭で、色んなことを学んだ気がするわ」

 偽らざる、感謝の言葉。
 ある日春香が、泣きながら言った言葉を、私は今でも反芻する。

《――千早ちゃんには、わからないよ――》

 私の心に真っ直ぐ突き刺さったその一言の重みを、私は当初測りかねていた。
 私は春香の何を、理解していなかったと言うのか。
 私は春香にとって、いったいどんな存在だと言うのか。

「……いいや、まーだ千早ちゃんは勉強が足りない気がするね!」

 そう言って笑う春香の笑顔が、不思議なほどに愛しい。

 事あるごとに、メディアが、制作が、私と春香を比べようとする。
 私はそんな二元化する世界に向かって、言って回りたかった。
 私は私、春香は春香だ。並べて比べて一絡げにしようとするな、と。
 私だって、春香に「追いつきたい」と思っていたのだ。
 そして残念ながら、私は欲深く嫉妬深い人間だと言うことに、その頃気付いた。

「……ごめんなさい。もう、時間だわ」

 ああ、成長していない! それはわかっている!

 けれど私は、左手首に巻いた腕時計が刻む時間を気にしていた。
 私はこれから、成田まで行かなければいけない。
 次の運命が待ち受ける、かのピルグリム・ファーザーズの国へ行く。
 春香とは、ここで「しばしのお別れ」になる。
 それが「しばし」ではなく、「永遠の」にならないことを、祈るしかない。

「千早ちゃん、これ!」

 今まで春香が背中に隠していた「それ」を、私の前に差し出す。

 それは、花束だった。
 私たちが養成所時代から、先日の解散ライブまでに築き上げた想いを束にして。
 手向けの花は、咽返るほどに「春の香り」がした。
 ――――ちくり。
 心の奥に、棘が突き立つ。

「それと千早ちゃん――――これも受け取ってよね!」


        《ぱあぁぁん》


 体重の乗った右手のビンタが、ぶぅんと風を切る音がして、私の左頬にヒットした。
 春香は、泣いていた。泣きながら、私を張ったのだ。
 言葉じゃない何かでしか、伝えられない想いを、彼女は形にして見せたのだ。
 勝てない。春香にはやはり勝てないのだ。

「……ありがとう、春香」

 目の前の景色が、滲んで溶けた。

 春香が少しずつ、遠くなって行く。
 さよならだけは言わないことが、二人の約束だったから。
 ありがとうを、私は何度も噛み締めた。

 そして、人の居ない波止場で、私は「忘れな草」の花束を抱き締めた。



<fin.>