夕方を過ぎても、風はまだ、暖かかった日のこと。

 私と千早さんはレッスンスタジオを出て、事務所に戻る途中でした。
「……なんか違う……これじゃない」
 千早さんはスプリングコートの襟を立てて、ちょっと不機嫌そうな顔でぶつくさ言いながら、私のすぐ後ろを歩いていました。
「……違うって、何がです?」
 独り言だということは、私にもわかっていました。
 けど、聞かずにいられない、そんな気分だったのです。
「高槻さん……自由と孤独が翼になって空を飛ぶ、ってどういうことかしら」
「…………はい!?」
「ごめんなさい。忘れて」
 そのときの千早さんは、物凄く悩んでいたんだと思います。
 ……私には、よくわかりませんでした

 確かあれは……一週間くらい前だったかもです。

「プロモーションビデオ、ですか?」
「ああ、そうだ。今度の新曲のPVを撮るに当たって、君たちがこの曲に対して思い浮かべるイメージを、俺に伝えて欲しいんだ」
「……随分と、急な話しですね」
 プロデューサーと千早さん、そして私の三人で、会議室でミーティングです。
 私たちにとっては、これからそう何度もない、三人だけの時間でした。
「ん、まぁな。決まったのさっきの会議だから」
 うちのプロデューサーは、いつもこの調子です。
 千早さんは、もっとしっかり管理するプロデューサーが良かった、って前はよく言っていました。

 ……うん、最近は言わなくなった気がしますけど。

「……で、『何を』『いつまで』考えてくれば良いんですか? 具体的な説明をお願いします」
 それでも相変わらず、千早さんの口調はいつもちょっと怒った感じ。
 小鳥さんに聞いたら「あれは千早ちゃんの照れ隠しなのよ」って教えてくれました。
 二人の仲って、そんな間柄なんだなぁ、と思うと、ちょっと羨ましいかも?
「コンテは再来週までに決定、そっからロケハンだが、最短でも一ヶ月後には撮影は済ませないと、編集が間に合わん。リリース日程はもう決まっちまってるし、IUまで日もないと来ている。いろいろと、押せ押せなんだ」
 そう言ってプロデューサーは、右手の人差し指を立てて、空中を指で差しながらお話をします。
 気付いていないかもしれないですけど、プロデューサーの癖の一つなんです。
「ゆえに、来週のこの曜日までには、君たちが『蒼い鳥』と言う楽曲について思い浮かべたビジュアルイメージ、ストーリーボード、そういうものを持って来て欲しい」
 プロデューサーが立ち上がって、ホワイトボードに字や絵を書きながら説明しています。
「実現可能性は、制作スタッフ側で考える。余程馬鹿げたものじゃなければ、大体のことは実現可能だと思ってくれて構わん」
 そして一通りの説明が終わると、プロデューサーは胸を反らして「どうだ」と言う顔をします。
 ビジュアルイメージ……ストーリーボード……。
「あの~、つまり『絵本』を書いてくれば良いんですか?」
 そう答えると、プロデューサーは目を細めました。
「ああ、そうだな。『絵本』くらいはっきりしたスクリプトが有るほうが、作り手も具体化しやすい。けれど時間もないし、断片的なもので良いさ」
 プロデューサーの大きな手が、私の頭をニ、三度、くしゅくしゅってしました。
「千早もな。お前さんはどうしても、一から十まで揃えたがるから、敢えて言っておこう。断片を持ってくるんだ、いいね?」
 プロデューサーの言葉に、千早さんは渋々と言う感じで、首を縦に振りました。


―― ※ ――


 そして、プロデューサーとの約束の日は、もう明日に迫っていました。

「……高槻さんは、どう思う?」
 ああ来るかな、来るかも、って思っていた質問が、千早さんから飛んできちゃいました。
「えっとその……悲しい歌だけど、前向きな歌だと思います!」
「そうね……いろんな物を投げ打って、それでも私たちは空を飛ぶ。そのキーワードが『自由』と『孤独』なんだと思うの」
 千早さんは相変わらず、歌詞の意味をすごく細かく考えているんだな、と思いました。
「『あおいとり』の絵本なら、読んだことが有る気がするんですけど……」
 ごめんなさい。私は思わず、頭を抱えてしまいました。
「メーテルリンクね。私も昔読んだことが有って、今回の新曲のためにもう一度読んだわ」
 千早さんは、歌うようにお話を始めました。
「あのお話は、実は幸せは自分たちのすごい近いところにある、って言うお話だったけど……『蒼い鳥』は違うのよね」
「はい……どっかに飛んでっちゃう感じですよね」
 好きな人の元から、飛び立って行く『蒼い鳥』。
「何を求めて、鳥は空に羽ばたくのかしらね。『自由』と『孤独』を翼にして……」
 そう言って、千早さんはそっと足を止めて、目を伏せました。
 私も釣られて、足を止めます。

 春風がそっと、私たちを軽く撫でて行きました。

「……わかったわ」
 突然千早さんが、きっと目を見開いて呟きました。
「ど、どうしたんですか!?」
「高槻さん! 私たち、まだ歌い足りないのよ、きっと!」
 なんでかわからないけど、千早さんがとっても生き生きした笑顔で、私に言いました。
「えぇ~っ!? 今日だって朝からスタジオに入って、ずっと歌い通しだったのに!」
 まだ足りないって、すごすぎます……。
 千早さんは歌が大好きなこと、私もそばで見ていてよく知っていたつもりですけど……。
「高槻さん、今からあの公園に行きましょう! そして、空を相手に歌いましょう!」
 千早さんは私の袖をきゅっと掴んで、ずんずんと歩き出します。
「わわっ! 待ってください千早さん! 袖が伸びちゃいますー!!」
 ああ、もう、こうなったら千早さんは止まりません!

 ――あの公園。
 まだ私が事務所のお掃除係だった頃に、初めて千早さんと会ったのは、小高い丘のある公園でした。


―― ※ ――


 冷蔵庫のお茶が切れているので、事務所の近所までお使いに行った帰り道でした。

 すごく、きれいな歌声が、公園から聞こえてきたので、私はつい寄り道をしました。
 歌声がするほうへと耳を澄ませて、てくてくと公園の中を歩いていきます。
 やがて、小高い丘のてっぺんで、空に向かって高らかに歌う女の人を見付けました。
 でもその時に「がさっ」と言う音を、レジ袋が立ててしまったのです。

「……誰かいるの?」
 はわっ! み、見付かっちゃいました!?
「あ、あの、すみません! すっごい上手な歌が聞こえてきたものでっ!」
 私は正直に、そう言いました。
「……ありがとう。でも、私の歌なんて、まだ完成形には程遠いわ」
 女の人は、少しも楽しそうではなかった、それが私の第一印象でした。
「こんなに上手に歌えるのに、楽しくないんですか?」
「……楽しい?」
「はい! 歌を歌うと、とっても楽しい気分になりますよね!」
 後で思い返すと、その時の歌によるはずなのに。
 ……ああ、私が楽しい歌ばっかり歌うから、「歌=楽しい」だと思い込んでました!
 でも、私の一言について、その人は初めてにっこりと微笑んでくれました。
「……そうね。本来は、そう有るべきかも知れないわ。けれど私の歌は、まだ誰も知らない物語のようなもので、誰の心にも伝わっていないの。それが、今は切なくて……」
 その微笑は、温かいものなのに寂しい感じがしました。
「でもでもっ! 私にはすごく伝わりました! 楽しい、って感じじゃなかったかもですけど、すごく聴いて欲しいって気持ち、伝わったかもですっ!」
 どうしても、今の歌がとても好きで、気持ちよくて、ステキだったって伝えたくて、私は一生懸命にその人に話して聞かせてみたんです。
 そうしたらその人は、寂しくない感じの笑顔になってくれました。
「……如月千早。あなたは?」
「えっ! えっと、高槻やよいですっ!!」
「そう、高槻さんね。また会えたら、よろしくね。お使いの途中だったんじゃ?」
 はわわっ!! これはいけません、事務所の方に心配を掛けたら、アルバイトをクビになっちゃうかもです!
「千早さん、ですね! またお歌聞かせてくださいねー!」
 元気に手を振って、笑顔で、ダッシュでお別れをしました。

 それが、千早さんと初めて会ったときのこと。

「えっ……高槻さん?」
「あれっ……千早さん?」
「…………ん? 君ら、知り合いだったのか?」

 私のアイドルデビューのために、プロデューサーが付いて初めてのミーティングに千早さんがいた時は、本当に驚いたのを今でも忘れません。


―― ※ ――


「……どうしてかしら」

 一通り歌い終わってから、千早さんは天を仰いで、両手で顔を覆いました。
「どうしても降りて来ない! 私は作詞者の重要なメッセージを、理解できていないんだわ!」
 良く通る声で、千早さんが思いの丈をぶちまけます。
 その横で私は、千早さんの歌声を聴きながら『蒼い鳥』のイメージを想像していました。
「……難しいです。字に引っ張られて、絵が思い付かないかもです」
 ううーん、どうしよう、どうしよう。
 プロデューサーからの宿題、提出できそうにありません!

「……ふむ。お悩みのようですな」

 突然、私たち以外の声がして、二人でその方角に向かって振り向きました。
 そこには柔らかい笑顔で、知らないお爺ちゃんが立っていました。
「……どなたですか?」
 千早さんが警戒心を剥き出しにして、お爺ちゃんをきっと睨み付けます。
「なぁに、たまたま近くを通り掛かった、ただの年寄りだ。ああ、お嬢ちゃんたちの事ぁラジオで聴いたことがあるから、よう知っとるよ。如月千早さんに、高槻やよいさんだな」
 お爺ちゃんは、笑顔を崩さずにさらっと言いのけました。
「さっきからずっと、如月さんの歌を聞かせてもらっておった。安物のラジオのスピーカーで聴くのとは、うんと違った声だからな。最初に聴いたときは、金縛りに遭ったかと思うた」
 そう言ってお爺ちゃんは、高らかに笑いました。
 千早さんはちょっと照れ臭そうにはしていましたが、警戒モードではなくなったみたいでした。
「ただ、な」
 お爺ちゃんの声のトーンが、少し低くなりました。
「如月さん。お嬢ちゃんの歌は、確かに技術的には十分じゃが、まだ歌いこなせてはおらん。自分でも、そう思うとるだろうがな」
「……そこまで、わかってしまうものですか?」
 千早さんは、少し驚いた顔をして言いました。
「なぁに、年寄りの占いが当たっただけだ。自分でも不安なまま歌に向かえば、自然と不安が歌に出る。誰だってそう言うものだろう」
 そういってお爺ちゃんは、私たちのほうへと歩み寄ってきました。
「初めて歌う歌、よく知らない歌、どうしたって自然と歌詞とメロディを追うだけで精一杯になる。だからそこには情が湧かない、感が篭らない。当然のことだ」
 確かに、私もまだ、メロディをなぞるのが精一杯だったと、思い出します。
 お爺ちゃんは、優しく口を開きました。


    君たちが、聴かせるべき歌はな。  
    まだ、君しか知らない物語なんだよ。


 そのとき、千早さんの目が、はっと輝きました。
「如月さんに、高槻さん。何がわからんか、この年寄りに言うて聴かせちゃあ、もらえんかね。ああ、腰がしんどいから、座らせてもらうけどな」
 そう言ってお爺ちゃんは、よっこいしょ、と掛け声を掛けながら、丘のてっぺんの草っ原に腰を下ろしました。


―― ※ ――


「お嬢ちゃん方は、恋をしておるかい?」

 お爺ちゃんが、顎をさすりながら言いました。
 千早さんの顔が、途端に桜色になって、ちょっと可愛かったです。
「私は……まだ、人を『好き』になるってことが、あまりわからないかも……」
 自信なく答える私に、お爺ちゃんは首を縦に振りました。
「理屈で計るもんでもないからの。ましてや、それが『恋』だと呼べる代物かどうかなんざ、御破算になってから検算してみんことにゃあ、わからん」
 う、うーん……ちょっと難しくなってきたかも?
「だがな、お嬢ちゃん方。『恋』と言うから行きたくなって、『愛』と言うから会いたがる、と昔からよう言うんだが、誰かを強く想うことは、同時に相手を縛り付ける縄にもなり得る」
「……『孤独』であることは、逆に誰も縛り付けないし、自らも縛られない。だから……『自由』」
「そういうことだな。自らに自由を要求することは、誰からも束縛されない世界を望むことと、イコールなんだよ」
 えっと……つまり……。
「誰かを愛することは、誰かを自分に縛り付けること……かもですか?」
「まぁな、全部が全部そうだと言うわけではない。だがな、世の中にはそういう『恋』も『愛』もある。誰かを束縛することで、初めて成立する世界があるっちゅうことだ」
 お爺ちゃんは時々難しい話をしますが、何となく私の中に『イメージ』ができてきた気がしました。
「だから……この歌の『鳥』は、愛する人から離れることに後ろ髪を引かれながらも、『孤独』であることを引き換えにした『自由』を選んだ……」
 千早さんのテンションが、ちょっと危ない感じになってきました。
「うむ。歌詞のままに考えれば良かっただけだろ? だから、あと一つだけ、ヒントを投げておく」
 お爺ちゃんは右手の人差し指を立てて、トンと何かを指で叩くような身振りを付けました。
 ……この話し方、どこかで見たことが有る気がするんですよね。
「『鳥』を飼っていた、かつて『鳥』を愛した男は、既にこの世のものではない」
「「えっ!?」」
 思わず、二人で同時に叫んでしまいました。
「……いや、ちょっと待て。誰もそれが正解だとは言うとらん。だが、そう考えると合点が行かないか?」
 お爺ちゃんは、不意に立ち上がりました。
「『泣くことなら容易いけれど、悲しみには流されない』んだろ? つまるところ、別離が起こったのは自分の意志じゃない、『別離になってしまった』んだと考える。自分から男をフッておいて、悲しくて泣くか? 普通は清々した気分になるだろうよ」
 ……なるほど。確かに。
「だから、『鳥』を愛した男の記憶に束縛された『鳥』が、過去の記憶との鎖を自ら断ち切って、次の空へ飛ぶ話だ、と考える。こうすれば、『なぜ』の結果が『自由と孤独』にストンと落着するだろう?」

 ……ええっ!? なんか手品を見ているような気がしてきましたっ!
「どうすれば、そのような解釈を自在に可能にできるのでしょうか?」
 千早さんがまるで、弟子が師匠に教えを乞うような姿勢で、お爺ちゃんに尋ねました。
「……さぁな。方法は教えられんが、方法を見つける手段なら、教えてやれんこともない」
「それで十分です」
「ふむ。じゃあ、お嬢さん方」
 そう言ってお爺ちゃんは、私に背中を向けて言い始めました。
「あなた方はこれから、まだまだいろんな出会いもするし、別れもするだろう。だがな。ワシさっきも言った気がするんだが、それは全部、君ら自身しか知らない物語、君しか知らない歌なんだ」
 だから、と言ってもう一度お爺ちゃんは、私たちに向き直りました。

「君しか知らない物語を、贈りなさい。想いの内を、全て束にして。
 さすれば、その内きっと、誰かがそれを受け取ってくれる。
 贈り物を待っちゃだめだ。自分から、贈りなさい」

 ――――よいな? と、お爺ちゃんが結びました。
 その顔は、ちょっと照れ臭そうで、そしてやっぱり、どこかで見た顔のような気がしました。


―― ※ ――


 あくる日。事務所の会議室。

「……で。結局のところ、宿題は?」
「申し訳ありません。そんな経緯が有ったものですから、『蒼い鳥』のイメージがまとまるどころか、様々な方向に膨らんでしまいました」
「おーん! それじゃ困るんだよーい! 企画の趣旨変わっちまったろーが!」
 プロデューサーが頭を抱えてしまいましたが、その顔はいつもの通り、ちょっとおどけていました。
「むうぅ。やよいはどうだ! 『蒼い鳥』、何か掴めたか?」
「えっ、えっと、その……」
 二人の視線が、私に集中しているのがわかります。
「……恋した人が死んじゃったら、すごく、すっごく! 悲しいです!」
「物凄いわかりやすい断片を、ありがとうやよいっ!」
 うう~、だって昨日のお爺ちゃんのお話をまとめたら、そういうことになったんですよ!

 ――こん、こん、こん。
 三回会議室のドアがノックされて、ゆっくりと開いた扉から、小鳥さんが顔を出しました。
「あの、打ち合わせ中、失礼します……」
「おや? どうしました、小鳥さん」
「千早ちゃんとやよいちゃん宛に、小包が届いてまして……スタッフで確認しましたけど、ちょっと急いで見て欲しいな、と」
 なんでしょう、ファンの方からのプレゼントかも?
「わかりました、確認しましょう。ここに持ってこられますか?」
「ええ、持ってきてるんですけどね」
 そう言ってぺろっと舌を出す小鳥さんに、プロデューサーが苦い顔をしました。
 小鳥さんが背中にこっそり隠していたものが、どうやらその正体だったようです。

「じゃーん!」
 効果音付きで、小鳥さんが背中から出したそれは、一枚の絵でした。

「……これは!?」
「すごいですー! 千早さんと私が、しっかり入ってますー!」
 それはまるで、これから飛び立とうと準備をしている千早さんと、まだ地面に縛られている私のようにも見えました。
 もう一つ。プロデューサーの顔が、みるみる蒼くなっていくのも、見えました。
「小鳥さん……差出人は?」
「こちらです」
 そう言って小鳥さんがプロデューサーに伝票を差し出すと、蒼くなった顔は一瞬で赤くなりました。


「…………あンのクソ親父めええええっ!!」


 ……やっぱり、そうでしたか。
 あのお爺ちゃん、どことなくお話の仕方が、プロデューサーに似ていた気がしたんです。
 なんてことは、プロデューサーには言わないほうが、いいですよね!
「くっそ! あのくたばり損ない! 俺の仕事にまでしれっと介入してきやがって、ちくしょう! あったま来た、実家に電話してくるっ!!」
「あ、ちょっとプロデューサーさん!?」
 バタバタと足音を立てて、プロデューサーと小鳥さんが出て行ってしまいました。
 残されたのは、絵と、一枚の便箋だけでした。
 私と千早さんがお互い目を見合わせて、一度だけ首を縦に振ると、千早さんが便箋を取り開きます。

    隠しておいたが、倅が世話になっている。           
    俺に似て出来の悪い息子だから、迷惑ばかり掛けてるだろうがな。
    僭越ながら、お嬢ちゃん方の歌をイメージに絵を描かせて貰った。
    俺の手元にあっても仕方がないから、事務所に送っておく。   
    これも、君たちしか知らない物語の一つだと思ってくれれば良い。
    新曲、売れると良いな。頑張れよ――――           

    追伸。うちの倅がブチギレたら、うるさいだろうが、放っておけ。


「……ですって」
 千早さんが、優しい微笑を浮かべて言いました。
 それはまるで、春の陽だまりのように、ぽかぽかとした笑顔でした。
「私しか知らない物語、かぁ……」
 思わず独り言のように呟いたのを、千早さんが逃がしてくれませんでした。
「でも、高槻さんしか知らない物語は、まだまだいっぱい有るんじゃないのかしら?」
 ……えへへ。たぶん、そうですよね。そうなると良いな! って思います!

 たっぷりお日様を吸い込んだお布団のように、ふかふかした空気が、会議室を包んでいます。
 それはきっと、「私たちしか知らない物語」なのでした。



<fin.>