――――まるで、複素数平面だ。

 開口一番の感想がそれか、とあずささんに窘められる。
 だってそう思わないですか。全方位三六〇度、どこを向いても無限遠点が見える景色なんて、僕の脳内データベースをひっくり返したって、出て来やしませんよ。
 そう言いたかったけれどあずささんの目は、それ以上無粋なことを言うな、と咎める目付きだったことは、すぐに気付いた。


「本当に見渡す限り、地平線ですね~」
 あずささんがセスナからステップラダーを軽やかに降りて来る。
 飾り気のない白のワンピースが、遮る物の無い周囲から吹く風に軽く舞う。
「……驚きました。お話の中にしか存在しないもんだとばかり」
「国内でしたら、北海道辺りに行けば見られるんじゃないでしょうか」
 どうだろう? 幾ら北海道が僕らの想像を凌駕するほどに広大な大地だったとしても、ここまでの景色はそうそう拝めまいと思うのだが、どうだろうね。
 千メートル級の滑走路に申し訳程度の管制塔が立つだけの、簡素な飛行場。
 滑走路の上で、僕らはただ、圧倒される草原の緑に圧倒されていた。
 ふと気付くと、セスナのパイロットが、右手をサムアップした。
 彼はもう一度、僕らが出発した飛行場へ戻るために、管制に許可を得なければならない。だから機体から離れろ。そういう意味だった。

 キャリーバッグを引き、唯一建っている建物に向かって歩く。
 滑走路の上を歩くと言う体験も、冷静になって考えたら初めての体験だ。本当にあらゆる未経験から処女を奪い去る土地である。
「……お天気がいまいちなのが、残念ですね~」
 そうなのだ。スコンと底が抜けたような青空を期待していたのだけれど、残念ながらそこまで役者は揃ってくれなかった。
「明日には、晴れてくれるといいんですけどね」
「そうですね……でも、プロデューサーさんは雨男だから、もしかしたら」
「ちょっと、あずささん!? 僕は別に雨男なんかじゃ……」

 と、そこまで言って思い出す。
 僕とあずささんの記憶の中に、物凄く雨の日の比率が高いことを、だ。記憶の中のアルバムを乱雑に捲り返す。
 デビューシングルの頒布イベント。デパートの営業。郊外でのロケーション。
 野外ライブイベント。ラストコンサート…………。
「……全部、雨だ」
「でしょう? だからきっと、プロデューサーさんは雨男なんですよ~」
 時折滑走路上を吹き付ける風にあおられ、そのたびにあずささんは、つばの広いすみれ色の帽子を左手で押さえる。右手はキャリーバッグの取っ手に奪われていた。
 思わずキッと空を見上げる。
 鈍色に近いような重たい雲が、空一面を綿帽子のように覆っていた。

 不意にあずささんの左手を、僕の右手でしっかりと握り締める。
「……あ、あの、プロデューサー、さん? 急に……どうなさったんです?」
「こんなところで迷子になられたら、探しようがないですから」
「まさか……このくらいの一本道、いくら私でも」
 そうじゃないんです。
 実空間に引かれた道路のコトなんか、気にしちゃいません。ただ一瞬、もしかしたら、って思ってしまったんですよ。この不透明な鈍色の空間に、あなたが溶けて消えてしまうんじゃないか、ってね。
 そう、不安になっただけですよ。
 まぁ、そんなことは、僕の口からは言えないわけで。

「そう言えば、結局直らなかったですね~」
「……何がです? あずささんの迷子癖ですか?」
 即座に僕が返すと、あずささんは少し頬を膨らませ、反乱の兆候を見せる。
「違います! ……いえ、それもですけど、その……お互い、会った頃のままじゃないですか。呼び方も、口調も」
 ああ。そう言えば散々それは、事務所で指摘されたんだっけ。主に音無さんから。
 僕は今でも、彼女のことを「あずささん」と呼ぶ。
 彼女は今でも、僕のことを「プロデューサーさん」と呼ぶ。
 そしてお互い、口調は敬体のです・ます調。
 音無さんから「それはおかしい」と、力説されたのである。泥酔状態で。
 他人に節介を焼いてくれるのは有り難いんですが、ね。
「別に、良いんじゃないですか? 直らなくとも」
「……そうでしょうか?」
 だって、そうだろう。
 別に急にここで、例えば僕が彼女を「あずさ」と呼び捨てたり、彼女が僕を名前で呼んだりしなければ、僕らがいつまでも他所他所しい間柄の二人に見えると言うのなら、僕はそれで構わないと思う。
「言葉なんて、道具の一つに過ぎません。急に変えようと意識する余り却ってちぐはぐになるくらいなら……」
「……現状維持は、その場に留まる努力をすることじゃない、でしたっけ?」
 That's right.
 Cランクに上がって、急激に仕事量が増えた頃に僕が言った一言を、あずささんは正確に覚えていた。

 僕らは平面上の同じ座標の上にいるわけじゃない。
 時間と言う変位量が、常に僕らを突き動かしている。
 時間に突き動かされた周りのベクトルによって、僕らも受動的に移ろっているのだ。
「止まっているわけでは、ないんです。僕らは『変えない努力』をしている。それで、何も問題はないと思いますよ」
「……そう……ですね」
 そんなあずささんの微笑が、不透明な複素数体に原点を作った。

 ぱしゃっ。

「…………っ! いつの間にカメラなんて?」
「セスナを降りてからです。ずっと狙ってたんですよ。シャッターチャンス」
「もう! 一言言ってくれれば、ポーズくらい取ったのに……」
 いや、ね。僕はもう、作り物は要らないんです。
 ありのままの、ナチュラルな三浦あずさを、僕はずっと見ていたいから。
 この一枚の写真はきっと、これから僕らが作り上げる空間の、原点になるんです。
 だから。これで、良いんですよ。
 ……なんてことは、やっぱり僕の口からは、言えないのだけれど。

 小さな飛行場の小さな管制塔、そのロビーに、かつてのアメリカ映画で見たような農村の神父さんが立っていた。
 明日僕らは、彼の立ち会いの下で、神の前に結婚を誓う。
 だからせめて、明日だけは! 明日だけは、この不透明な空をパーフェクトにルーセントにして欲しい。
 ……とは思っているのだが、さてどうなのだろうね。
 飛行場を出て、かの神父さんの差配した車に乗り込み、数分もしないうちのこと。

 空は僕に、祝福のシャワーを浴びせ始めた。



<fin.>