昨日の晩からずっと、私の頭は、何かに締め付けられている。

 無論、比喩だ。物凄く痛いと言うわけでもなく、まるで指の先にできてしまったささくれのように、時々ちくりと触れては痛痒い、喩えようもなく鬱陶しい代物だった。
 頭痛薬も試しはしたが、市販のアスピリン程度では軽減せず、午前中に病院には行ってみたものの、CTやMRIで電磁波的に輪切りにされることもなく追い返された。
「大丈夫ですか? 律子さん、具合悪そうですけど……」
「ああ、いえ。軽い偏頭痛みたいなんですけど、鎮痛剤でも取れなくて……」
 はぁ……顔に出ないように振舞っていたつもりだったが、所詮は十八の小娘の猿芝居であったか。
「ハーブティーでも飲みませんか? 確か接客用にカモミールを買って有ったはずですし」
 午後のお茶会の準備を始めようとする小鳥さんの背中に向かって、私が言う。
「……電気屋さん、呼びました?」
 ぎくっ、と言うオノマトペを小鳥さんは全身で表現してみせた。
「そ、そうねぇ、電気屋さんに来てもらわないと、クーラーいつまでも直らないものねぇ~……あはははは」
 そうなのだ。
 事務所のクーラーは、今日になって突然「ツンツン状態」に突入した。


 今の季節は、夏真っ盛りである。
 昼間の気温は三十度を軽く超え、ひどい日には四十度さえ突破せんとするほどの、馬鹿げた陽気の最中にあるのに、クーラーがない。
 当然の如く、事務所の窓と言う窓はフルオープンだ。それでもやってくるのは生温いだけの風ばかりで、少しも涼しくなる方向に貢献する見込みが感じられない。
「電気屋さんは、私が呼びます。他にも電話しなきゃいけないところが有りますしね」
 そう言って私はハンズフリーのインカムを被り、電話直結のPCからオートダイアラーで架電する。
「あ、もしもし? お世話になっております、わたくし765プロダクションの秋月と申しますが……はい、あの、実はですね、弊社で使用しているエアコンがちょっと故障してしまったようで……」
 丁寧に電話するのさえもどかしい。「クーラー壊れた! 直しに来い!」とぶっきらぼうに言える程度に無神経で有れば、どれだけ良かっただろうかと思う。
 しかし、電気屋さんのレスポンスは思った以上に歯切れが悪い。
「……はぁ。故障が集中……それって今日中には……ええ、そうですよね……えっとそれじゃあ、メーカーさんのサポートダイヤルとか……ああ、そうなんですか……」
 なんてこった。日射病やら熱射病やらでぶっ倒れる人間が続出しそうなほどのこんな日に、そこら中で弊社と同じようにクーラーが故障していると言うではないか。販売店では対応できず、メーカーもフル動員だと言うが、今日中には対応は無理だと素気無く断られた。
「……はい、ではなるべく早くお願い申し上げます……ええ、こちらも業務に支障が……ええ、存じております……はい、宜しくお願い致しま……あ、はい。秋月と申します。『あ・き・づ・き』です」
 それほど珍しい苗字でもあるまいに、電話の向こうの相手には秋月と言う姓が伝わらなかったようで、念入りに音節を区切って発音するたびに、頭蓋骨を外側 から押圧するような鈍痛を感じた。一通り伝言を済ませて「通話終了」のボタンを押すと、付けているだけで煩わしいインカムを早々に机の上に投げ出した。
「修理、明後日以降って言われました」
 地獄の底から這い上がってきたような声で小鳥さんに近況を告げると、見る見るうちに彼女の顔から生気が失せていった。ああ、いくら小鳥さんでもやはり暑 いのか。聞いているだけで体感温度がニ、三度上がりそうなアブラゼミの大合唱が、頭痛と相俟ってより一層の不快感を生じていた。
 仕方がない……私がやるか。
 エアコンの修理なんてしたこともないし、最近のエアコンはいろいろ便利になっていることを考えると、カスタムチップ的なサムシングが含まれている可能性 も高い。正直そうなれば、こちらの手には負えない。だが物凄く単純な原因だとしたら、二日も三日も待っているだけ馬鹿らしい。
 ブラウスの袖をたくし上げて、さてやるぞと言う気分になったところに、不意に誰かがやってきた。

「あー……あっついのー!! 律子、冷たい麦茶とか欲しいのー!!」

 ……やれやれ。騒がしいのがやって来た。


―― ※ ――


「美希。『律子さん』でしょ? 何回言わせるの、アンタはっ」
 冷蔵庫にちょうど、大きめのマグカップ一杯分だけ残っていた麦茶を差出ながら、軽く説教をした。
 だが美希は、全く私の声には耳を貸さずに、一気に麦茶を飲み干す。
「……はふぅ。律子……さん、お代わりなの!」
「もう無いわよ……新しく作らなきゃ」
「夏なのに冷たい麦茶がないなんて、ご飯におにぎりがないのと同じくらい有り得ないの!」
 ……その例えは間違ってると言い辛い。おにぎりもご飯ではあるのだし。
「じゃあたまには、飲むばっかりじゃなくて自分で作りなさい。ティーパックは戸棚の上、作る入れ物はコレ。ちゃんと洗うのよ? あと水道水から直接じゃなくって、ちゃんと煮出して作ってね」
 単純な話、このビルの浄化槽が古いので、夏の蛇口から出る水はそのままでは飲めたものではない。かと言っていちいちミネラルウォーターを買ってくるのも不経済だ。だから古典的に、ちゃんと煮出して作る。それが当事務所のこだわりでもあるのだ。
「うぇ……じゃあミキ、コンビニで買ってくるの!」
「こらぁ、美希! 待ちなさーい!!」
 美希はくるりと踵を返すと、まばゆいブロンドヘアをきらめかせながら螺旋階段を下って、あっという間に真夏の太陽の下に舞い戻って行った。

 まったく、困ったものだ。
 しかし麦茶がないのは失敗だ。これからレッスンや営業を終えて、事務所に戻ってくる連中に飲ませる分がない。せっかく美希がやってくれると思った矢先に逃げられた。
「仕方がない……私がやるか」
 なぜか軽い既視感を覚える独り言をごちて、空になった麦茶用のガラスボトルを手に、給湯室の流し場へと足を向ける。
 入って思った。熱のこもり方が、常軌を逸していた。サウナかここは、と思うほどに給湯室は暑かった。
「まさか美希、このことを知ってて逃げたのかしら……」
 可能性はゼロではない。美希のカンの働き方は天才的である。法則だとか原理だとかを飛び越えた、常識に掛からないところで美希のカンは動いている。解明出来ればノーベル賞どころの騒ぎではないだろう。もっとも、至って科学的な要素を感じないのだけれど。
「やれやれ、まったくもう……」
 大きめのお鍋に蛇口から水を張り、蓋をして沸かす。

「……ああ、もうあっついの!! 小鳥、冷たい麦茶が欲しいの!!」

 事務所のほうから声がした。
「ええっ!? あ、あれ、美希……ちゃん?」
 そりゃそうだろう。あの声は美希以外の何者でもない。
 しかしだ、ちょっと待て。美希はすでに一度事務所に来て、残り少ない麦茶を一気飲みした上に、お代わりがないと知るやいなや、事務所を飛び出して行方知れずである。
 ……さて、問題。
 今、事務所に来た「美希」は、本当に「美希」か?
「美希っ!?」
 慌てて麦茶のティーパックを持ったまま、事務所に駆け戻った。
「あ! 律子……さんなの! ねぇ、麦茶ないかな? うんっと冷たいの!」

 そこには、茶髪にショートヘアの美希が立っていた。

 私の脳内異常探知警報機が、盛大なアラーム音を奏で出す。
「あ、あの……律子さん……これって?」
 小鳥さんは完璧にパニックモードに突入していた。ニラウンド確率変動大当たりも真っ青だ。
 脈拍と連動して――がつん――と言う鈍い痛みが頭を貫いた。
 誰だ? いや、誰かは見ればわかる。髪型が違うだけで、これは「美希」だ。
 じゃあその前に事務所に来たのは誰だ? それも「美希」だ。私が初めて会った頃のままの星井美希だ。
 おかしいじゃないか。星井美希は二人いるのか? それとも私が知らなかっただけで、亜美と真美のように双子の姉か妹がいたとでも言うのか。その可能性はない、彼女の家族構成は調査済みだ。
 ――がつん――と言う音が更に大きくなっている。
 予感のようなものが、頭を掠めた。
 間違いない。今、間違いなく、「星井美希」は二人いる。
 昨晩からの頭痛の原因は、もしかしてコレなんじゃないのだろうか?
 その時不意に、事務所の扉が開こうとしていた。

「――――まずいっ!?」

 私はその扉が開き切る前にこちらから扉を開き、事務所に入ろうとする人間を制止するつもりだった。
 なぜって? この流れで行けば、確実に美希と美希が鉢合わせになると思ったからだ。
 そんな馬鹿げたSFチックなことを、目の前で起こされてたまるものか。
 私はまだもう少し、現実世界に生きていたいのだ。
 例えうちの事務所が、どれだけ浮世離れしていると言われようともだ!
「きゃっ!!」
「……あ、あれ? ごめん……美希だと思ってたわ」
 しかし、扉の向こうに立っていた人間は、私の想定とは違う人物だった。
「もう、いきなり逆側から開くから、びっくりしたじゃない……」
 心底、安心した。もう一人の美希ではなかったことに、非常に安心した。この一瞬だけは。
「あ! 千早さん、お帰りなさーい!!」
 美希が嬉しそうに事務所側から声を上げた。
「え……あら? 美希、いつ髪型変えたの?」
 如月千早もまた、事態を飲み込めぬままに、この不可思議に巻き込まれたようだった。


―― ※ ――


 美希(茶髪)が寝ている。この先、便宜上そう呼ぶことにする。
 蒸し風呂のような会議室のソファーで、寝苦しそうに寝汗をかきながら、それでも枕を離さないこの子の根性は、素晴らしく本物である。
 とりあえず、近場の自動販売機で買った冷たい飲み物を与え、ついでにとお昼に買っては見たものの暑さで食欲を失って食べ損ねたおにぎりを与えると、美希(茶髪)は満足げに寝息を立て始めた。これ幸いと、私と小鳥さんで会議室に運び込んだと言うわけだ。
「……律子。説明してもらって良いかしら?」
 美希(茶髪)をうちわで仰ぎながら、千早が切り出した。
「ここじゃナニだし……事務室に戻りましょ。もっとも、私もほとんど分かってないけどね」
 そう言って、小鳥さんに美希(茶髪)を任せて、私は会議室の扉を静かに閉めた。
 ふと思い出す。美希(金髪)は、まだ帰って来ない。
「まさか……あの子、帽子も被ってなかったし……」
「あの子、って?」
 千早が当然の質問をする。
「美希よ。正確には、金髪の美希ね」
 私の言葉に、千早が絶句したようだった。
「とにかく、先に事務所に帰ってきたのは金髪の美希。後から戻ってきたのが、今会議室で寝てる茶髪の美希。どっちも美希であることには間違いないわ」
「間違いない、って……そんなおかしなことが、どうして?」
 さぁてね。理由はむしろこっちが聞きたいところだが、何を以て偽者とするかの根拠に乏しい以上は、どちらも美希だ。少なくとも一目見て、髪型以外は間違いなくいつもの美希だった。
「とにかく、美希同士を会わせないようにするしかないわね……金髪が帰ってきたら、麦茶じゃなくてビールでも与えてみようかしら。一発で寝てくれそうだし」
 冷蔵庫の中には、社長やプロデューサー連中が隠れて飲む用のビールがあることを、事務所の人間は当然知っている。
「ちょっと待って、律子」
 千早の顔がますます不安そうに変わっていく。
 私もハプニングの類に強いほうではないが、千早も同じ種類の人間だったのだろうか。とは言え、もうちょっと土壇場になると腹を決めるタイプではあろうが。
「なに?」
「美希同士が出会ってしまったら、何が起きるの?」
「……いや、分かってたら対処してるわ。何も分からないから、何も起きないであろう方策を貫きたいだけ」
 そう言うと、千早は俯いて考え込んでしまった。あなたは一つも悪くないのだが。

 時計を見やる。午後二時の夏の太陽が、窓から容赦なく事務所に差し込んでいる。
 あれだけうるさかった蝉時雨でさえ、ピタリと鳴り止んでいる。
 そうだろうそうだろう、蝉は何のために鳴いているのか? 求愛のためだ。子孫を残すために逢瀬を迎え、土中での生涯の何分の一しかない成虫の期間に賭けているのだ。無駄な体力を使っている場合ではなかろう。
 生暖かいだけだったとは言え、風もピタリと止まっている。そして、物音一つしない。
「……なんか変な感じがしない?」
 切り出したのは千早だった。
 そうだ。余りにも静かすぎる。あらゆるものが、全て止まっているように見える。

「……っ!! 千早っ! 時計を見てっ!!」
「えっ? ……ええと、一四時二八分よ?」
 ……やっぱりか。
 違和感に気付いてしまったが最後だ。
「千早。壁の時計は何時になってる?」
「……一四時ちょうどに見えるわ。電池が無くなったのかしら?」
 そうじゃない。
 鳴り止んだ蝉時雨。
 ピタリと止まった風。
 一四時を刻んだまま動かない壁掛け時計。
 角度の変わらない真夏の太陽。
 そうじゃないんだ。

「……時間が……止まっている?」

 暑さ以外の理由で生じた汗が、ぬるりと顎先を伝って、床へと落ちた。


―― ※ ――


 時間が止まっている、と言う表現は全てを言い表していない。
 正確に言えば「私と千早以外の時間が止まっている」と言うべきだろう。全ての時間が止まっているのなら、私たちはこうして会話することなどできないからだ。
 更に言えば、美希(金髪)がコンビニから帰って来ない理由も、それで説明できる。止まっているのだから、彼女はまだコンビニにいるか、その道中かのどちらかだ。
「つまり……私たちの周りだけ時間が動いていて、それ以外は止まっていると言う解釈で合ってるの?」
「そうね。私たちの周囲の、ごく狭い範囲だけに時間の流れが発生している、と言ったところかしら」
 そう言って私は、壁掛け時計を外して手元に持って来た。大仰な仕掛けの壁掛け式電波時計は、時刻こそ遅れてはいるものの、再びコチコチとクオーツ仕掛けの針で時を刻み始めた。それを見て千早は、ああ、なるほどね、と言う顔をした。
 よくこれだけで納得できるものだ、と思わなくもないが、聡明な千早ならばこれで十分状況を把握するには足りるのであろう。
「……と言うことは、会議室の音無さんと美希は?」
 そう。扉を隔てた会議室には、小鳥さんと美希(茶髪)がいるはずだ。
「状況を帰納的に当て嵌めるなら……」
 そう言って私は、会議室のドアノブに手を掛ける。
「この扉を開けた瞬間から、会議室も私たちの時間に引き戻されるはず。つまり、今この状況で、私たちが時間的に孤立していることを、単純に証明することはできないわ」
「じゃあ、時間的に戻ることは?」
 それは、分からない。意図的に遡行することは無理だけど、「会議室の扉を閉めた直後」に戻ることは可能だろう。但し私たちは単純に、小鳥さんや美希(茶髪)から見て、約三十分後の未来からやってきたことになる。
「……なんか複雑なことになっている気がするわ」
 千早が眉尻を下げて不安そうな表情をした。
 そんな顔してくれるな。私だって何がなんだか分からないのだ。
「そう言えば、美希はいつから茶髪になったの? あの髪型もなかなか似合ってるとは思うけど、いきなりのイメージチェンジなんで驚いたわ」
 駅前で配っていた、丸い紙に穴が空いているだけの簡易うちわを、バタバタと仰ぎながら千早が問うた。
「ああ、そう言えば先週くらいだったわよ。ほら、美希の担当プロデューサーが交通事故に遭ったじゃない」
 先週そんなことが有って、事務所全体が騒然となったのだ。幸い軽傷で済んだものの、その事故の直接の原因ではないが、間接的にトリガーを引いてしまった美希が、何かの決意表明の如くいきなりあの髪型で現れたのである。

「……うそ、でしょ?」
 ――がつん――。
 千早が驚いた顔で私を凝視している。
「先週、私が美希と営業一緒だった時はまだ金髪だったわ……。律子の言うことが正しいとしたら、先週の時点ではもう茶髪になっているのよね?」
 ――がつん――。
「あ、いや確か先週の営業って、TGCのアレよね。アレの時は金髪…………」
 ――がつん――。
「それに、私の担当と美希の担当は同じプロデューサーなのよ? プロデューサーは事故なんかに遭ってないわ!」
 ――がつん――。


 ――――なんだ?
     なんなんだ、これは!?


 どっちだ!
 どっちの美希が先週の時点における正しい美希だ!?
 私は確か先週、公式サイトに「トーキョー・ガールズポップ・カーニバル2010」の開催に伴なうキャンペーン営業の写真を掲載した。その時の写真がPCに残っているはずである。
 自席のPCのスクリーンセーバーを止め、パスワードを入力する。
 頭が痛い。鈍い痛みではなく、明らかに物凄い力で圧迫されているような痛みが、頭だけじゃなくて体中を駆け巡っている。
 分からない。どうなってるの?
 千早はこんなときに嘘を言う子じゃない。冗談も含めてだ。
 それがあの驚きの顔に繋がっている。私の言っていることが、彼女の記憶に一致しないから、彼女はあれだけ驚愕したのだ。
 ――がつん――。
 だから話がおかしい。
 私は最悪なことに、どちらの記憶も有るのだ。
 担当プロデューサーが同じだった、それは一つの記憶。
 事故に遭ったプロデューサーは、千早を担当していない。もう一つの記憶。
 どちらが夢でどちらが現か、あの写真さえ有ればわかるはずだ!
 ――がつん――。
「…………ぐっ!」
 絶え間ない頭痛に、吐き気を催す。完全な交感神経優位の状態に、頭を抱えそうになった。気持ち悪い。世界が万華鏡みたいにぐるぐるする。私がいったい、何をしたと言うんだ!?
「律子!? 大丈夫? 律子!?」
「……写真……写真をっ!」
 震える右手がマウスをクリックする。一つずつフォルダを掘り下げて行き、毎回サイトを更新するごとに作ってあるフォルダ群まで、ファイルツリーが辿り着いた。
 ――がつん――。
 しかし辿り着いた先は、絶望だった。
「うそ……先週私……サイト更新して…………」
 先週更新分のコンテンツは、私のPCからごっそり無くなっていた。
「律子――――!?」
 ――がつん――。
『……律子、こっちよ!』
 ――がつんっ!――。

 ああ、最後の呼び声は誰の声であったのだろうか。こっちとはどっちなのか。
 それもわからぬまま、一際大きな音がして、私の連続する意識に寸断が訪れた。


―― ※ ――


 目が覚めると、私は机に突っ伏していた。
 暑くない。それが第一印象だった。
 私の目方以上の重みを体に感じながら、半身を机から引き剥がす。
 涼しいどころじゃない、むしろ肌寒いくらいの気温しか感じない。
「……ここはどこ?」
 周りを見渡すがそこは真っ暗で、私が突っ伏していた事務所の机以外、何もない。
 私の自席だけが、違う空間にポンと強制移動させられたような、そんな空気だ。
「――律子? 律子なの?」
 遠くのほうから、私を呼ぶ声がする。この声は、千早だ。
「……千早なのね?」
「ええ。あなたは律子なの?」
「そうよ」
 互いの存在の信憑性が微妙に揺らぐ中、何もない虚空の中で、私たちは互いの名を呼び合った。
「ねぇ、千早……ヘンな質問をしてもいい?」
「……程度によるわ」
 千早は少し困った顔をした。私がこれからする質問は、軽度の「ヘン」ではないことを、見透かしていたのかも知れない。
「あなたは、さっきまで私と一緒にいた千早? それとも、どこか違うところから来た千早?」
「……さっきまで律子と一緒にいた私がいたのだとしたら、後者よ。律子とは、一週間ほど顔を合わせていなかったわ」
 千早が困った顔のまま答える。
 質問をしておいて、考えがまとまらない。予測範囲内の答えだったはずなのに。
「ごめん。少し私に考える時間をくれる?」
 そういうと千早は黙ってこくりと頷いた。
 まとまらない理由を、もう一度洗い直す。

 第一問:突然現れた、二人の美希の「意味」は何か。
 第二問:私と千早だけが、本来の時間の流れから孤立した理由を述べよ。
 第三問:なぜ私だけが、全く異なった二つの記憶を持っていたのか論考せよ。
 第四問:ここは、どこだ。

 なんてこった。全部不完全な記号だらけじゃないか。
 シニフィアンと対になるシニフィエが存在せず、ゆえにシニフィカシオンを持たず意味論を為さないシーニュばかりがぶら下がっていて、解決の切り札になる場所さえないのは、どういうことなんだ?
「ねぇ、律子……一つだけ訊いても良い?」
 ただ頭を抱えるだけの私に、千早が質問を投げ掛ける。拒否する正当な理由がないので、私は力なく首肯した。
「……プロデューサーは、事故には遭っていないわよね?」
 その質問は、今まさに私が試行錯誤して意味を探そうとしている能記の一つだ。
「分からない……遭ったとも言えるし、遭ってないとも言える。私に分かるのはそれだけなの」
「……どういうこと?」
 千早が少し気色ばんだ顔をする。ああ、そうだ。この千早にとって、プロデューサーの交通事故は「あってはいけない」ことなのだ。だから私の「遭ったとも言える」と言う曖昧な返答が解せなかったのだ。
 だが、私の頭の中では、どちらが現実でどちらが非現実かの答えが出ない。少なくとも私の記憶には、相反する事実が不思議な精度で両立しているのだ。
 ……いや、ちょっと待て。

『本当にそれは、どちらか一方を現実だと断定して良いの?』

 ……そうだ。私は二つの可能性を唾棄していた。
 一つは「両方とも現実」であると言う、事実関係の不可分性。
 そしてもう一つは「両方とも非現実」であると言う、根元事象の否定性。
 交通事故と言うトピックの存在・非存在に関する事実性は、コインの裏表に集約される。
 標本の少ない確率空間のようなものだ。

『だとすると、導かれることがあるじゃない?』

 ……誰? さっきからまるで、私のモノローグを読むように合間合間に言葉を挟んでくるのは、私の思考を読み取っているのは、いったい誰なの?
 千早の声じゃないことは確かだ。そして、美希でもない。更に言えば、小鳥さんでもない。でも、すごく聴いたことがある声だ。聞き覚えの有る声だ。そんな人間がいるだろうか? 両親? 親戚? 友達? いいや違う、全部違う!
 消去法を繰り返して、やっとわかった――。

「――私かっ!?」
『……ご明算よ、秋月律子』

 暗闇の奥のほうから現れたのは、紛れもない「私」だった。
 なるほど。あの時かすかに聴いた呼び声の正体は、そういうことであったか。
「え……律子が……二人?」
 千早が狼狽する。私だって、正直逃げ出したい。

『まだ続ける? それとも、答えが欲しい? あまり私の姿で煩悶を続けるのを見ているのは気が引けるから、できればギブアップして欲しいんだけど』

 冗談じゃない。
「私」はこの先まだ、埒の開かないゲームを繰り返せと言うつもりだったのか。

『……聞きたいことが色々あると思うけど、先回りさせてもらうわよ』
「私」が冷たい口調で言葉を連ねた。
 なんとまぁ、腹立たしい言い草だ。知っている人間――もっともこの「私」が人間かどうか分からないが――の立場を振翳されることが、これほどまでに癪に障ることもそうあるまい。
『ここは強いていうなら、あなた達が『選ばなかった』選択肢の廃棄場だと思ってくれれば良いわ。つまり、あなた達の見てきた物語とは違うところで、連続していたかも知れない運命のゴミ置き場、ってこと』
 そう言って「私」が、ニヤリと笑った。非常にいけ好かない笑顔と言う奴だった。
『あなた達に言っておかなければいけないことが、二つ有るのよ』
 今度は右手でVサインを作る。
『一つは、あなた達が過ごしていたこの一週間は、全て非現実だと言うこと――』
「――そんなはずは!!」
 即座に反応したのは、千早のほうだった。
『まぁ、最後まで聞いてちょうだい……仮に聞くに耐えない話でもね。一週間前、つまり先週の月曜の夜。あなた達の時間軸で言うところの先週よ。このとき、何かが起きた。さて、それは何でしょうか……どう? 律子さん』
 ……くそっ。そういうことか。
「星井美希の担当プロデューサーが、交通事故に遭った。それが先週月曜に起きた『事件』よ。そっちが正解だったのね」
「律子……あなた…………」
 千早が私を非難したそうな目で睨みつけて来た。
 仕方がない、あなたがいくら否定しようとも、それが現実だったと言うことだ。
 しかし、だ。それならば「プロデューサーが事故に遭わなかった」と言う事象が非現実だとすると、美希(金髪)の存在はどうなるのか? 事故が事実だとなった今――この謎の「私」もどきの言うことを信じれば――存在確率を持っているのは美希(茶髪)のほうだ。
「……で、二つ目は?」
 背中に感じた悪寒の正体が、多分この二つ目だ。
 聞きたい話ではないが、私は既にこの問題についての思考を放棄しているのだ。

『二つ目。プロデューサーは、あの事故で死んだのよ』

「「――――そんなバカな!!」」
 今度は二人の声が綺麗にハーモニーになったが、何も嬉しいことはない。
 プロデューサーが死んだ? 事故で? そんな話は聞いていないし、それなら私は葬式くらいには参列しているはずだし、事務所でクーラーが壊れて麦茶がなくなってとか、悠長な話をしている暇などなかったはずだ!
『バカな、と思うでしょう? それがあなた達の一週間に「非現実」を作り出した理由。そして、律子。あなたの記憶が二重化されてしまった、本当の原因よ』
「なん……ですって…………」
 私は思わず膝を付いた。そこまで言われて立っていられるほど、私は残念ながらメンタルがタフにはできていない。
「一つ教えて!」
 千早が悲鳴にも似た声を上げた。
『……なに?』
「そのプロデューサーは、私のプロデューサーなの!?」
『あなたのプロデューサーでもあり、星井美希のプロデューサーでもある人、つまりあなたのよく知っている人よ?』
 ……天を仰ぐ。最悪の結末じゃないか。
 千早は茫然自失の体で、膝を抱えてうずくまっている。
 こんな時になって私はようやく、この顛末が分かってきた。
 別段理解したいと思っていたわけじゃあない。ただ、これまでどうしたって情報同士の距離が定義されていない集合に向かって、明らかに分かりやすい位相が投入されただけだ。
 そうなれば、元は各々が勝手に線を結んで像を為す。
 だから結論が見える。
 そこには過去も透けているのだ。

「……ありがとう。やっとタネと仕掛けが分かったわ」

 私の声は、少しだけ掠れていて、少しだけ震えていた。


―― ※ ――


 一週間前の月曜日。
 如月千早と星井美希の担当プロデューサーは、交通事故で落命した。

 確かに私は、アルバイトの事務員に過ぎなかったけれど、彼のことは事務所で何度となく顔を合わせている。
 彼は少しだけ鈍く、人一倍一生懸命で、少しHなところは標準男性並みだ。ただ、彼は冗談は言うが嘘をつかない、誠実さと直向さが売りだった。
 彼とはあくまで、仕事の上での話しかしない。余計なことを口出しして、担当アイドルと溝でもできたら、会社の損害になることくらい、私は理解していた。 だから、やれ経費伝票が出てないとか、来月以降のスケジュールを出せとか、そんなことを口やかましく言うだけの存在だった。
 彼にしてみたら、口うるさい事務員の一人にしか見えなかっただろう。
 それで良い。私はそこまでの女だ、と諦めを付けようとしていたのだ。
 千早のプロデュースは軌道に乗っていた。それによって、事務所の会計は見る見るうちに潤っている。事務所の移転拡張さえ見えてきたぐらいに、私たちは「如月千早」と言う経済に依存していた。だからこそ、余計な影を落としたくはなかったのだ。

 それに、私にとっても、千早は友人の一人だ。
 自分には歌しかないと言う、時に頑迷にさえ映る向上心は、同様に前しか見てないようなプロデューサーにはうってつけの組み合わせに見えた。
 誰かが社内で噂をしていた。ベスト・カップルだ、と。
 私も、同意した。
 千早が幸せになってくれさえすればいい。そう、思っていた。

 ――美希が現れるまでは。

 美希は天性のアイドルであり、自由気ままな猫のような子だった。
 まさにうちの事務所には破格の大器であり、誰もが「売れる」と確信する逸材だった。けれど美希は、高くを望まないタイプだった。そこそこやってそこそこ数字が出れば、それで満足するタイプ。羨ましい、と腹の底から思った。
 天性の美貌があり、歌やダンスのセンスに秀でていることに、胡座を掻いているようにしか見えないことに、多少なりとも嫉妬した。しかし彼女は、それ以上に憎めない人間だったのだ。
 口の聞き方を知らない、常識を知らない、あらゆることで美希は多少なりとも欠落していた。放っておけばいいと言われたこともあるが、私にはどうしても美希が放っておけなかったのだ。

 その美希のプロデュースを、千早のプロデューサーが兼任すると聞いたときに湧いた複雑な感情を、私は今でも言葉に著すことはできないだろう、と思う。

 そのプロデューサーが、死んだ。
 美希を、かばって――――。

 繰り返す。一週間前の月曜日。
 如月千早と星井美希の担当プロデューサーは、交通事故で落命した。


―― ※ ――


「……受け入れられなかったのよ、私も千早も」
 涙の一つくらいこぼれてくるかと思いきや、私は意外に冷静だった。
「だから、そのことを知った一週間前の火曜日から、私も千早も現実の選択肢を全部捨てて、仮初めの非現実空間の中に日常を作り込んでしまったのよ」
『……ええ、その通り』
 だが、それも限界だったのだ。
 仮定と想定だけで建て込んだ「日常」は、砂上の楼閣の如くあっさりと崩れ去り、時間と言う推進力を失った。そこに、千早の作り込んだ「日常」が流れ込んで来た。たまたま、私たちは情報的に近い位相にあったことが災いしたのだ。
「美希が二人いた理由、つまり金髪と茶髪が両方いた理由は、金髪の美希は千早の『日常』の美希で、茶髪の美希は私の『日常』の美希だった。しかし二人の『日常』が混交してしまったがために、美希と言う存在が二重定義されてしまった。それで正解?」
『さすがだわ。パーフェクトね』

「…………だったらなによっ!?」

 ああ、止めていたのに。
 私は自らを冷静だと評価するほどに、自分を騙し続けていたのに。
 いや、そうじゃないのか。
 自分を騙し続けられなくなったから、千早と私の「日常」が非現実なものになって、あの日から先の現実を無視し続けていたものが溢れて、夏の日の狂騒曲は誰もタクトを揮う人間がいなくなってしまったのだ。
「だったら戻してよ! 今すぐ現実に戻してくれて構わないわ! でもここには、もう一人キャストが足りてないんじゃない!?」
『それは、美希のことを言っているの?』
「他に有り得ないでしょう、この場にいないキャストなんて!」
 ほとんど子供の八つ当たりのように叫ぶ私を、「私」がやんわりと止めた。

『受け入れたのよ、美希は。
 現実をしっかりと、正面から受け止めたわ。だから、ここにはいないのよ?』

 ……ああ、そうなんだ。そりゃあ完敗だ。
 完敗だわ、美希。

「じゃあ、私たちには帰れそうな現実が、戻れそうな『日常』が見当たらないわ……どうすれば良いの?」
『残念ながら、ひとつだけ現実を取り戻す方法が有るけど?』
 ……なんですって!?
「――――教えて」
 そのとき、それまでうずくまっていた千早が、不意にか細い声を上げた。
「千早……あなた……」
「確かに私たちは、現実を受け入れられなかったかも知れない。けれど、私たちは前を見て歩く以外に、時間の進み方を知らない……」
 人生には前にしか進めない。それは、かのプロデューサーの好きな言葉だった。
「だから、教えて! 正しい時間に、戻る術が有るのなら!」
 千早が立ち上がって、今度は毅然とした態度で「私」に向かって言った。

 すると「私」は、どこからか紙コップを二つ取り出して、私たちに手渡した。
 中身は無色透明の液体。水だろうか? 特に匂いらしいものもしない。
『ナノマシンよ。抽象空間から具体空間に、もう一度写像を連結させるための、ね。よく覚えといて、律子』
 ……なんだって? 抽象空間から具体空間……。
「ああ、もうそんなの覚えられるわけないでしょ!」
 と言うか、なぜ覚えてなければいけないのだ。
 私の泣き言を聞いて、「私」が初めてにこやかに笑った。なにがおかしい。
『使用方法は、別にそのまま飲んでくれれば良いわ。そうすれば、この空間に変換していた座標は、現実のある時間座標の一点に再連結される。その場面をとりあえず映してあげるわね』
 そう言って「私」は、軽く右手でフィンガースナップを鳴らした。
 その瞬間、周囲の景色がパッと変化する。
「……これは……桜?」
 そうだ。三月末に事務所で行った花見の会場になった公園だ。
 だが、人の影はない。私たちの周囲がかつての光景に似ている、と言うだけだ。
『そのナノマシンの稼働時間は、実時間相当で一時間。それ以上時間が経てば、ただの水になるわ。』
 努めて冷静な「私」がさらりと注意書きを述べた。つまりここから一時間で、私たちは本当に現実を受け入れる覚悟が有るのかどうかを試されているのだ。
『現実を受け入れるのも自由、現実から選ばれなかった選択肢として、この抽象空間を漂う一事象になるのも自由。決めるのはあなた達──』
 だけどね、と言って「私」は一度息を吸い込んだ。
『あなた達がいた非現実に戻してくれ、ってのだけは無理よ。もうあなた達の幻想は壊れてしまったの。その点は覚悟してちょうだい。いいわね?』
 それだけ言うと、まるで「私」は役目を終えたと言わんばかりに、光の粒の群れになって姿を消した。

「……座ろうか。とりあえず」

 どちらともなく切り出した。
 紙コップの中の不穏な液体を見つめたまま、立ち話もなんだしね。


―― ※ ――


「……二度目はさすがにキツいのよね」
 千早が何気なく、コップを眺めながら呟いた。
 そうか、二度目になるのか。彼女が大事な人を失うのは。
「考えるだけなら辛いだろうな、とは思うけど……想像の範疇でしかないのよね」
 桜の木に寄り掛かった姿勢で私が口にした言葉は、随分と浮薄な上っ面だけのものだった。でもお為ごかしの慰めなど、彼女は欲しいと思っていないだろう。それもまた、勝手な想像でしかないのだが。

「でも律子にも、現実に起きてしまったじゃない?」

 千早が少し意地悪に見えた。皆まで言わせるつもりか。

「会社として大きな損失だと思うわ」
「素直じゃないのね」
「おかげさまで」

 二人で、笑う。桜の木の下で。
 花が咲き、花が散る季節に、私たちは何を思ったのだろうかと考える。
 不意に風が巻き上がった。地面に溜まった桜の花びらを盛大に空高くぶちまけて、そうして景色は桜色のヴェールの中に隠れていた。

 幾許かして、世界は元の色彩を取り戻す。
 千早は、天を仰いでいた。正直、泣いているんじゃないかと思った。
 しかし彼女は、何とも形容のし難い半笑いの笑顔のまま、桜色の中に溶け込もうとしていたのかも知れない。
「……律子。泣いてるのね」
 ああ、そうか。泣いているのは私のほうだったのか。
 二度までも諦めさせられた男のことを、未だにしつこく根に持っていた薄汚い女は私だったのだ。そんな現実をも腕に抱えながら、私はこの先の人生をまるで無期懲役囚の如く生きてゆかねばならぬと言うのだろうか。
「残酷だ、人間って……」
 涙声になってしまった私の、最後の抵抗だった。

 そして私はまた、一つの「結論」を導き出した。

「人間だけじゃない、現実ってヤツはみんなそうなのよ」
 千早がこちらに視線を戻しながら言う。
「綺麗なもの、汚いもの、見たいもの、見たくないもの……そんなことが全部マーブルになって溶けているのが現実なんだと思う。私たちは、それに逆らって、見たくないものを排除することばかりを考えていた……」
 最大の過ちを犯した罪と、その罰。
 一瞬でも愛した男を巡る、くだらないほど真剣な三者三様の駆け引きは、結局一人の勝者も決定せずにその幕を閉じてしまった。
 勝者なら居るだろう、って? いや、彼女もまた私たちと同じように「欠落」を胸に抱いて、これからを生きなければならないのだ。決して忘れ得ぬ想いと言う名の十字架を背負ってなお、私たちは生き続けなければならないのだ。
「きっと今、私たちが持っているこのコップの中身ってさ……」
 さっき消えた「私」はこれをナノマシンだと説明した。
「これが『現実』なんじゃないのかな、って思うんだ。抽象的な現実を具体化したことで、今はこんな形になっているけれど……」
 私の言葉に、そうかも知れないわね、と千早が微笑んだ。
「じゃあ、律子。いっせーのせっ、で一気に空けちゃいましょ」
「了解、良いわよ」
「行くわよ、いっせーの……」

 そして「せっ」のタイミングで、私はナノマシンを地面にぶちまけた。

「律子……!? どうして、どうしてそんな……っ!!」
 飲み下してしまった千早が、慌てて私のほうを見た。
 その千早は既に、体の色素に透明度が生まれ、ぼうっと光り輝いていた。
「律子も現実を受け入れるはずじゃなかったの!? どうして……どうして私一人だけが、こんな状況で現実と戦わなければいけないの!? ねぇ、律子! 答えてよ律子!!」
 詰め寄る千早には、何の答えも与えてあげられない事情が有った。
 それは今回の一連の流れで、どうしても引っ掛かり続けていた「記憶の断片」だった。
「ごめんね、千早……私はまだ、現実に戻れそうにない。現実を、受け入れてはいけないの」
 千早の姿が、パーティクルになって拡散を始めた。
 次に千早が見る風景は、恐らくあの時の花見の宴席で、私たち765プロにはまだ美希がいないところからスタートするのだ。
 私たちの人生の「泣きの一回」を、これから千早が迎える試練を、私は敢えて隠し通していた。狡いだろうか? 私も確かにそう思う。
「律子は……律子はどうするの!? こんな異空間の中で!」
 大丈夫、心配は要らない。
 もしかして次にあなたが、あの日あの時、あの場所から全てをやり直せるのなら、もう同じ間違いは冒さないはずである。だからもう。
「千早一人で大丈夫……私は後を追うから、だから……少しだけ、待っていて欲しい」
「律子…………っ!!」
 私はもうすぐ消えかかりそうな千早を、そっと胸に抱き寄せて、その可憐な桜色の花弁のごとき唇を合わせた。
 そして最後まで千早の顔を見ることなく、かつて彼女であった光のコラールが空間上にはじけ飛んで拡散するのを、黙って見送っていた。


―― ※ ――


『……はぁ、良かった。正解、分かったのね』

 いつの間にか消えていた「私」が、いつの間にか戻ってきた。
「おかげさまで。随分とヒントをくれたからね」
『ふぅん……で、どうするの? 最終的に』
 相変わらず「私」は、私に意地悪な問いを切り返す。

「始めから、そのつもりだったんじゃないの? そうじゃないと一つ説明が付かないことが有るのよ」
『……そのこととは?』
「あなたは……秋月律子は待っていたのよ。プロデューサーが事故に遭ったことで、非現実な『日常』を作り出す秋月律子を。そしてあなたは、その時にどう振舞うべきかの答えをこの世界に用意して待っていた……」
 そこで私は一度息を入れた。
「つまり、あなたは私自身。いや、正確には四ヶ月くらい前の私、と言うことよね? 実時間に照らせばだけど」
 そこまで言うと、「私」は少し驚いた顔をした。
 何となれば、彼女もまた「私」もどきなどではない、本物の秋月律子本人だったからだ。
『……ええ、全くその通りよ。もしこの世界に「私」が居なければ、私はそのまま現実に戻っていた。それはそれでまた、違った結果を作るであろうけど、いずれにしても現実を受け入れた私と千早の気持ちは、それまでとは違ったものになっている』
 これまで以上に饒舌な「私」が嬉しかった。
「だからよ。だってこれは、私を起点にしたループなのよ。ここは、人生をやり直させるための再生工場のようなもの。二周目に向かうことで、運命を変えるこ とができる工場なのよ。そこには工場長が必要で、今あなたは、その軛からようやく解かれた、と言うこと。そういうことでしょ?」
『……そこまで言われちゃ、かなわないわね』
 もう一人の「私」が、頭を掻いた。
『で、どうするの? 本当に残る? 実はさっきのアレなんて、いくらでも作れる代物なんだけどね』
「……ん。次はあなたが現実に帰る番よ。秋月律子」
 彼女はこの漆黒の抽象空間の中で、浮遊する抽象的な事象のまま、私たちが迷い込んでくるのをずっと待っていたのだ。それは同時に、次にその役目をする人間が、私である必然性も同時に満たしていた。

『……ありがとう、律子』

 もう一人の「私」が泣きながら、私に頭を下げた。
 彼女の体もまた、仄かにグロー効果を見せながら、まばゆく光り始めた。

「今度こそ、うまくやんなさい。律子」
『……あんたもね、律子』

 そうして、そのまま、「私」もまた、虚空の中にと消えていった。

 私は、次に「秋月律子」が来るのを、この空間で待ち侘びる。
 同じ悩み、同じ境遇、同じ展開を抱えてやってくる「律子と千早」に、互いの気持ちを吐き出させ、残酷な現実に向かうために必要な言葉を紡ぐのだ。
 だってあの時、「私」は言った。


    『よく覚えといて、律子』


 それは同時に、この世界に残る私への「遺言」だったのだ。
 連綿と繰り返されること全てが、規定事象だったのだとするならば、私たちはゼロかイチかも分からない確率によってのみ存在するのだとしたら、私たちの今回の流れは決してどこにもリンクせずに、私はただ無期懲役囚のように無為にこの空間を漂う羽目になっていたに違いない。
 だから、迷わないように、秋月律子はここでタクトを揮い続けるのだ。

 夏の日の狂騒曲の最終楽章を、見届ける。
 ただそれだけの存在として、私は己の中の罪と罰を反芻する。

 それは、横恋慕に過ぎなかった私の、嫉妬に対する断罪メカニズムだったのだ。
 だからこそ、もう一度やり直したい。でも、今の私ではダメなのだ。

 もっと素直に、けれど「来るべき」あの日のことを避けられるように行動することを、今後は義務付けられる。変えられないはずの運命を、私は私自身で変えること、千早とともに変えられることを、それができることを今は体いっぱいに感じている。
 そうして私は、無謬性で出来ている無限回廊の住人となった。いずれここを訪れる、秋月律子と如月千早を待つ、次元の待ち人として。
 私はようやく自らの役目を果たせると同時に、もはや涙さえ流せぬ抽象存在に分解された我が身を憂いた。それが、私の「罪」への判決であり、取りも直さず生涯に渡って背負うことになる、十字架の正体でも有ったのだ。

「千早……美希……また、会えるよね。プロデューサー殿……」

 そうして私の意識は、確率空間上の測度となった。



<fin.>