★シャッフルSS第2弾★



穏やかな春の午後。

柔らかい光が差し込む事務所で一人、
途方も無い量の書類と睨めっこを繰り返していた。

優しさの押し売りを続ける陽だまりを憎んでも仕方ない。
しかし、こう眠気を誘われると業務にも支障を来すというもの。

考えのまとまらない頭を何度か横に振り、
使い古した椅子の背もたれを一回だけ軋ませ立ち上がる。

最大限に光を取り込む、勤勉な窓に近寄りながら、
労うように固まった腰をさすり、呟いた。

「もう俺も若くないな」

三日月形の鍵をくるりと回し、
窓枠に添えた手に力を込め、振り払うように窓を開くと。

うそ寒い風が室内と身体に溜めた熱を奪い去り、
お詫びのように春の匂いだけを残す。

懐かしい香りに鼻先をくすぐられ、
怱忙な日々の中、片隅に追いやったはずの記憶が呼び起こされた。

「こんな穏やかな日は、思い出に浸るのも悪くない、か」

お守り代わりにしていた【輪っか】を、
ズボンのポケットから取り出し、光にかざすと鈍く輝く。

これまで紡いできた日々の端を手繰ると、
綴り合せた思い出の結び目は、いとも容易く綻んだ。

「思い出の始まりも、こんな暖かい日だったっけな」

色鮮やかな桜並木を見上げ、少し物憂げな表情で佇む彼女を鮮明に思い出せる。

『花の色は 移りにけりな いたづらに
     わが身世にふる ながめせしまに』

彼女の落ち着いた声を記憶の中から探すように、
二人の出会いをなぞるように、句を詠みあげる。

過去を振り返りながら、誰かに呼ばれた気がして後ろを振り返ると。


「――――貴方様、ご無沙汰しておりました」


やはり、彼女は出会ったときと同じように、
少し物憂げな表情で佇んでいた。


「・・・久しぶり、だな。いつか、こうやって不意に現れるんじゃないかと思ってたよ」

ぎゅっと握り込んだ拳の中にはお守り。

久方ぶりの再会に心の中では激しく狼狽えていたが、
平静を装い、どうにか格好をつける。

彼女の前では、あまり意味の無い行動のようにも思えたが、それはそれ。
とりあえず、見透かされないように目を伏せてみた。

「突然の往訪、真、申し訳ありません。お変わりありませんか?」

「まあ、こっちは相変わらずさ。ゆっくり考え事をする暇も無いくらい忙しいよ」

彼女は先ほどまでの物憂げな表情を崩し、
それは何よりと、微笑む。

「貴音も、相も変わらず、だな」

「ふふっ。貴方様がそう仰るのであれば、そうなのでしょうか。そして、此処も変わりませんね」

懐かしむように、並んだ机を指先でなぞる彼女。

スッと消えてしまいそうなほど透き通り、
それでいて、凛と伸びた指先に思わず見とれてしまう。

それを咎められるはずも無いのに、取り繕うように、
周りを見渡す振りをしながら、言葉を探し、ひとつだけ見つけた。

「貴音が居た時とはメンバーも随分変わったから小物やポスターなんかは違うだろ?」

「貴方様、それは少々、無粋というもの。今、こうして移り往く時の中にありながらも、ここに流れる空気や雰囲気は変わらずに、温かいまま・・・。それはとても尊く大切なものだと思いませんか?」

『花の色は 移りにけりな いたづらに――――』

彼女が詠んだ句がまた脳裏に過ぎる。
今の彼女には、差し当たって思うところもあるのだろか。

「大切と言えば、貴方様は【大切り】という言葉をご存知ですか?」

「オオギリ・・・って言うと寄席で落語家がする、あの大喜利かい?」

思わず、口調も落語家調に。
彼女は口元を押さえ少しだけ笑ったあと、続けた。

「元は歌舞伎狂言でその日演ずる最後のものを【大切り】と呼び、転じて物事の終わりを指す言葉になったそうです」

彼女は何も、自分の博識さをひけらかしたいわけじゃない。
今までだって、必ず意味のあることを言ってきた。

意味深長で、難解で、読み解くのに何度も骨を折ってきたのだから間違いない。

それならば。


□ 落語といえば蕎麦だな
△ 歌舞伎と言えば、有名なあの人・・・
○ 大切なものほど、終わりのあとで、その大切さに気づくと言いたいのか?


答え合わせは必要ない、代わりの言葉を用意しよう。

「今日の貴音は、やけに雄弁で饒舌だな?」

意趣返しのように言うと、彼女は考える振りをし、
真面目な顔で、だけど、どこか悪戯めいて言った。

「私も、この日を待ち望んでいた、という表れだと受け止めて貰って構いません」

あとからやってきたのは、まるで、
この世界から音が無くなったのかと思うほどの静寂と。

気恥ずかしいけど、心地よい温かさ。

思い出の中と何ひとつ変わらず、彼女は現在そこに居る。

それこそ、手を伸ばせば届く距離に。

ただ、手を伸ばせば消え失せてしまいそうな気がして躊躇われる。

いっそ、掴んでしまえば何か変わるのだろうか。

こうやって、逡巡してるうちに、また目の前から消えてしまうかもしれないのに。




『花の色は 移りにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに』




いくつか深呼吸を繰り返す。

ただ、渡しそびれた物を渡すだけでいい。

失われたはずの機会が回りまわって、今、来ただけなのだから――――。

「――――貴音、こっ、これっ!」

握りこんだ右手を差し出す。

そっと、開いた手の中には鈍く輝く【輪っか】

貴音は瞳を潤ませ指輪を手に取ると、
両手で包み込みながら、床にゆっくりと膝をついた。

まるで祈りを捧げているかのようで、
長い銀髪が差し込んだ光を吸い込んで輝き、神々しくさえ見える。

そして暫くすると、また立ち上がり、
指輪を元の位置に返し、ただ、首を横に振っただけ。

ただ、それだけ。

それだけで、大きな仕事を成し遂げたあとのような、
肩に圧し掛かった重みから、解き放たれたような想いで満たされた。

「自意識過剰なだけかもしれないけど、機を逸したってことか・・・?」

手のひらに返された指輪を見つめながら呟くと、
まるで、そこがあるべき場所かのように誓いの指輪は鈍く輝く。

「いえ・・・今の私には、貴方様のその手で握り締められていた、指輪の温もりを感じられただけで充分・・・だと、いうことです」

「いつか、貰ってくれるか?」

「そのときが来れば、是が非にでも。おっと・・・そろそろ大切りの時間が来てしまったようです。今となっては残された時間もあと僅か。最後に何かあれば、もし?」

【大切り】

最後の演目。

残されたのは、大切なもの。

「貴音にとって、大切なものって何だ?」

口をついて出た自分の言葉に驚く。

意地悪な質問をしてしまったと後悔したが、
彼女は身じろぎひとつせず、こちらをまっすぐ見据えていた。

逡巡するでもなく、上辺を飾るでもなく、
ゆったりと落ち着いた口調で言い放つ。

「今も昔も変わらずに、貴方様と皆と過ごした時間こそが、かけがえの無い宝物です」

開けっ放しだった窓から、背中を押すように、
ひと際強い風が入り込み、思わず振り返る。

迷い込んだ花びらが一枚ひらりと、
広げた手の平の上、指輪に寄り添うように舞い落ちた。

「間際だと言うのに抱き寄せても戴けないなんて―――――」

――――やはり貴方様は、いけずです。

懐かしい彼女の文句に再び振り返ると、そこは誰も居なくて。
手のひらにあったはずの花びらも溶けたように消えていた。

「風花、か・・・」

手のひらの温もりを少しばかり奪って消えた風花。

またいつか、今度はこの手のひらの温もりごと捧げよう。

さよならと、締め括らなかったのなら、きっと、また会えるから。

そんなことよりも今はただ。

無色透明になって消えた花の温度を忘れないように、
手のひらを眺めながら、物思いに耽りたい。

そんなこと思いながら窓を閉め、
三日月型の締め金具を下ろすと、ぱちんと音がした。

まるで、夢のあぶくが音を立てて消えるように。

【大切り】は、うたかたの如く、儚く消えた。


                      〈了〉