★シャッフルSS第2弾★
仕事を早めに切り上げて千早の住むマンションに向かう頃には、もう夕方だった。インターフォンを押す直前、何となく街の景色を振り返った。街を夕陽が照らしていた。無数の四角の建築物とところどころに残る雪が、飴細工と溶けたキャラメルのように見えて、異様に甘ったるい景色だった。
向き直って、インターフォンを押した。病人を玄関まで出向かせるのもなんだと思って、扉越しに声をかけた。
「千早、お前のプロデューサーだけど、入ってもいいか」
ほどなくして、どうぞ、と例の妙に冷めた声が返ってきた。扉を開けて、奥の部屋を目指した。何度か聞いたことはあったけど、千早の住むこの部屋は驚くほど殺風景だった。らしいと言えば、らしかった。
千早は俺の持ってきたドラッグストアのビニール袋を見て、珍しくくすりと笑った。冷えピタやポカリと一緒に、のど飴を三袋も買ってきたのがいけなかったらしい。
「お前のことだから、風邪引いても無茶して練習してんじゃないかって」
「残念ながら今日は声を出すのもこれが初めてです」
千早はそう言って、布団の中で軽く咳をした。
俺は袋から出した冷えピタとポカリを冷蔵庫にしまってから、夕飯の準備に取り掛かった。夕飯の準備と言っても、ドラッグストアで買ってきたインスタントの お粥に卵を加えただけの簡単なおじやを作るだけだ。適当に味付けをして、皿に盛り、盆に載せて、布団の傍に運ぶ。千早はぎこちなくお礼を言って、皿を取っ た。
「礼を言われるようなことじゃない」
いや、本当に。
「私、こういうの作ったことなくって……あ、美味しいです。意外と料理上手なんですね」
「…………まぁな」
種明かしするのもつまらない気がした。一人暮らしならこれくらいできて当然、という顔をしてみた。偶には格好つけたって罰は当たらないだろう。
ふー、ふーと冷ましながら、ゆっくりとおじやを口に運ぶ千早を眺めていた。食べ終わるのに百年かかるんじゃないかと思うくらいのペースだったけど、やがて皿は空になった。かちり、とスプーンが音を立てた。
食器を台所まで持って行って、丁寧に洗った。真新しい布巾で拭いて、食器棚に皿とコップを戻した。棚には茶碗と底が深めの皿が二枚、コップが一つ。一人分の食器にしたって殺風景だった。らしいと言えば、らしかった。
部屋に戻ると、千早はうつ伏せになって敷布団の外の床を指でトントンと叩いていた。首を傾げた俺に気付いて、恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「何してんの」
「……いえ、別に何も」
布団の傍にしゃがみ込んでみると、床には鮮やかな橙色に黒い斑点模様の丸い鎧を背負った小さな虫が一匹。てんとう虫だ。
「てんとう虫だ」
「見れば分かります」
「死にかけてるな」
千早はえっ、と小さな驚きの声を上げた。
「見れば分かるだろ」
「……お返しのつもりですか? 言われれば、確かにちょっと元気ないですね」
床の上を這う彼の鎧からは翅が少しはみ出していた。よく観察してみると足が一本無かった。千早にとって彼は、さっきまでは道に迷ったあどけない子供で、今は荒れ野を彷徨う落ち武者のようだった。
「よく、今まで生きてましたね」
「あ、てんとう虫って越冬するんだよ。知ってた?」
「いえ。じゃあ、この人……えー、この、こいつは」
「こいつ」
こいつ、という言葉を選んだ千早が可笑しくて、笑った。千早は構わず、続けた。
「私の部屋で冬を越すつもりだったんでしょうか」
千早にしてはファンタジックな言葉だった。真剣で、一方でどこか冷めたような物言いだった。
「さぁ?」
「……分かりませんよね。そんなの」
「偶々、這い込んだだけかも」
千早は死にかけのてんとう虫から目を離して、布団に這い込んだ。そして、はぁ、と静かな溜息を吐いた。
「……千早、何かあった?」
「毎日、何かはあります」
「お前も生意気な口きくようになったな」
今度は鬱陶しそうにはぁー、と長い溜息を吐いた。暫く千早は黙ったままで、その何かを話すかどうか迷っているようだった。また、鬱陶しそうにはぁー、とさらに長い溜息を吐いて、千早は口を開いた
「昨日の夜、ここのベランダに出て外の景色観たんです」
「雪、降ってたな」
「ええ、珍しく大雪だって……私、一晩中ベランダで眺めてて」
「それで風邪引いたのか」
「……茶化さないでください」
ごめん、と一応謝る。詩人とコメディアンは絶対友達になれない、と、千早と一緒に居るときいつも思う。
「プロデューサーは昨日の夜、外出ました?」
「出たよ」
「大雪が降ると、あんなに静かなんですね」
千早は目を瞑って、あんなに静かだった街の様子を思い浮かべたようだった。俺には思い浮かべられない街が、千早の心をどんな風に動かしたのか少し気になった。
「雪は、音を吸うから」
「ええ。本当、静かでした」
今だって、部屋の中は十分静かだった。
「…………私にとって、歌、ってなんでしょう」
千早は壁に当たると、いつもこの質問をした。それは哲学者にとっての『生きるとは何か』のようなもので、大抵は答えがなかった。そして、適当に答えると大抵はロクなことにならなかった。
「さぁ?」
不思議なことだったけど、千早には中途半端にひねり出した意見よりもはぐらかされるほうが都合が良いらしい。
「……昨日、音のない街を観て、ちょっと、自信無くしたみたいです」
千早は布団の中で、また溜息をついた。
ふと気が付くと窓の外の太陽はとっくに沈んでいて、部屋はもう暗かった。千早と自分の呼吸の音、コツコツという時計の打つ音、外で救急車のサイレンが遠ざかっていく音。夜に姿を消してしまった色の代わりを務めるように、様々な音が現れた。
「私がこれから先、どんなに大きな声で上手く歌えるようになっても、一生、あの静けさには勝てないんだと思います」
そんなことない、って言ってやりたかった。でも、俺はその静けさを知らない。
「……てんとう虫はまだ居ますか?」
千早の中ではもう、この話は決着がついたらしい。布団で丸まりながら、死にかけのあいつの身を案じた。
「分からない」
「そうですか」
興味なさ気に言って、千早はそれっきり口を利かなかった。やがて、寝息らしきものを立て始めたので、俺は胡坐を崩して立ち上がった。
床に手をつくと掌にカサリ、とした感触。しまった。
慌てて、手をついた場所に顔を近づけてみると、てんとう虫の死骸が静謐に横たわっていた。橙色の鎧はくしゃりと折れ、見るからに痛々しかった。俺が殺したのか、死骸を潰したのか、判然としなかった。
あの死にかけじゃ、どうせ長くなかった。そう、言い聞かせて、千早の寝ている部屋を出た。
そのまま、マンションを後にしようかと思ったけど、戸締りが気になった。鍵の場所も分からないし、千早を起こすのも躊躇われた。半ば、途方に暮れて、暗い台所に座り込んだ。
シンクに落ちる水滴の音が、冷えた空気を揺らしていた。時々吹く風の音が空虚を運んできた。この空間の重苦しい黒と冷たさ、あまりにも静かで騒がしい音。
千早がいつもここに一人で住んでいるのかと思うと、怖かった。千早が何か得体の知れないものに浸食されているようで怖かった。
俺は手探りで内ポケットからウォークマンとイヤホンを取り出した。ボタンを押すと、数瞬置いて液晶に光が灯った。イヤホンを耳につけて、曲を選ぶ。ついこの間ボーカルを録ったばかりの、千早の新曲のデモ。世間一般にはまだ公開されていない。
「……俺はお前の歌、好きだけどな」
暗闇に一人。ウォークマンがランタンのように僅かに俺を照らしていた。俺を圧迫していた静寂の音は、千早の声でかき消された。
千早が明日の朝起きたら、真っ先に何を見るだろう。布団の傍で死んでいるてんとう虫を見つけて、何を思うだろう。てんとう虫の小さな骸に詰まった静けさに、千早は負けてしまうのか。
想像するのが怖かった。
「……俺は多分、お前の歌の方が好きだな」
耳をくすぐる千早の声を楽しみながら、大雪に口を噤んだ街の静けさを想像してみた。
「千早、お前のプロデューサーだけど、入ってもいいか」
ほどなくして、どうぞ、と例の妙に冷めた声が返ってきた。扉を開けて、奥の部屋を目指した。何度か聞いたことはあったけど、千早の住むこの部屋は驚くほど殺風景だった。らしいと言えば、らしかった。
千早は俺の持ってきたドラッグストアのビニール袋を見て、珍しくくすりと笑った。冷えピタやポカリと一緒に、のど飴を三袋も買ってきたのがいけなかったらしい。
「お前のことだから、風邪引いても無茶して練習してんじゃないかって」
「残念ながら今日は声を出すのもこれが初めてです」
千早はそう言って、布団の中で軽く咳をした。
俺は袋から出した冷えピタとポカリを冷蔵庫にしまってから、夕飯の準備に取り掛かった。夕飯の準備と言っても、ドラッグストアで買ってきたインスタントの お粥に卵を加えただけの簡単なおじやを作るだけだ。適当に味付けをして、皿に盛り、盆に載せて、布団の傍に運ぶ。千早はぎこちなくお礼を言って、皿を取っ た。
「礼を言われるようなことじゃない」
いや、本当に。
「私、こういうの作ったことなくって……あ、美味しいです。意外と料理上手なんですね」
「…………まぁな」
種明かしするのもつまらない気がした。一人暮らしならこれくらいできて当然、という顔をしてみた。偶には格好つけたって罰は当たらないだろう。
ふー、ふーと冷ましながら、ゆっくりとおじやを口に運ぶ千早を眺めていた。食べ終わるのに百年かかるんじゃないかと思うくらいのペースだったけど、やがて皿は空になった。かちり、とスプーンが音を立てた。
食器を台所まで持って行って、丁寧に洗った。真新しい布巾で拭いて、食器棚に皿とコップを戻した。棚には茶碗と底が深めの皿が二枚、コップが一つ。一人分の食器にしたって殺風景だった。らしいと言えば、らしかった。
部屋に戻ると、千早はうつ伏せになって敷布団の外の床を指でトントンと叩いていた。首を傾げた俺に気付いて、恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「何してんの」
「……いえ、別に何も」
布団の傍にしゃがみ込んでみると、床には鮮やかな橙色に黒い斑点模様の丸い鎧を背負った小さな虫が一匹。てんとう虫だ。
「てんとう虫だ」
「見れば分かります」
「死にかけてるな」
千早はえっ、と小さな驚きの声を上げた。
「見れば分かるだろ」
「……お返しのつもりですか? 言われれば、確かにちょっと元気ないですね」
床の上を這う彼の鎧からは翅が少しはみ出していた。よく観察してみると足が一本無かった。千早にとって彼は、さっきまでは道に迷ったあどけない子供で、今は荒れ野を彷徨う落ち武者のようだった。
「よく、今まで生きてましたね」
「あ、てんとう虫って越冬するんだよ。知ってた?」
「いえ。じゃあ、この人……えー、この、こいつは」
「こいつ」
こいつ、という言葉を選んだ千早が可笑しくて、笑った。千早は構わず、続けた。
「私の部屋で冬を越すつもりだったんでしょうか」
千早にしてはファンタジックな言葉だった。真剣で、一方でどこか冷めたような物言いだった。
「さぁ?」
「……分かりませんよね。そんなの」
「偶々、這い込んだだけかも」
千早は死にかけのてんとう虫から目を離して、布団に這い込んだ。そして、はぁ、と静かな溜息を吐いた。
「……千早、何かあった?」
「毎日、何かはあります」
「お前も生意気な口きくようになったな」
今度は鬱陶しそうにはぁー、と長い溜息を吐いた。暫く千早は黙ったままで、その何かを話すかどうか迷っているようだった。また、鬱陶しそうにはぁー、とさらに長い溜息を吐いて、千早は口を開いた
「昨日の夜、ここのベランダに出て外の景色観たんです」
「雪、降ってたな」
「ええ、珍しく大雪だって……私、一晩中ベランダで眺めてて」
「それで風邪引いたのか」
「……茶化さないでください」
ごめん、と一応謝る。詩人とコメディアンは絶対友達になれない、と、千早と一緒に居るときいつも思う。
「プロデューサーは昨日の夜、外出ました?」
「出たよ」
「大雪が降ると、あんなに静かなんですね」
千早は目を瞑って、あんなに静かだった街の様子を思い浮かべたようだった。俺には思い浮かべられない街が、千早の心をどんな風に動かしたのか少し気になった。
「雪は、音を吸うから」
「ええ。本当、静かでした」
今だって、部屋の中は十分静かだった。
「…………私にとって、歌、ってなんでしょう」
千早は壁に当たると、いつもこの質問をした。それは哲学者にとっての『生きるとは何か』のようなもので、大抵は答えがなかった。そして、適当に答えると大抵はロクなことにならなかった。
「さぁ?」
不思議なことだったけど、千早には中途半端にひねり出した意見よりもはぐらかされるほうが都合が良いらしい。
「……昨日、音のない街を観て、ちょっと、自信無くしたみたいです」
千早は布団の中で、また溜息をついた。
ふと気が付くと窓の外の太陽はとっくに沈んでいて、部屋はもう暗かった。千早と自分の呼吸の音、コツコツという時計の打つ音、外で救急車のサイレンが遠ざかっていく音。夜に姿を消してしまった色の代わりを務めるように、様々な音が現れた。
「私がこれから先、どんなに大きな声で上手く歌えるようになっても、一生、あの静けさには勝てないんだと思います」
そんなことない、って言ってやりたかった。でも、俺はその静けさを知らない。
「……てんとう虫はまだ居ますか?」
千早の中ではもう、この話は決着がついたらしい。布団で丸まりながら、死にかけのあいつの身を案じた。
「分からない」
「そうですか」
興味なさ気に言って、千早はそれっきり口を利かなかった。やがて、寝息らしきものを立て始めたので、俺は胡坐を崩して立ち上がった。
床に手をつくと掌にカサリ、とした感触。しまった。
慌てて、手をついた場所に顔を近づけてみると、てんとう虫の死骸が静謐に横たわっていた。橙色の鎧はくしゃりと折れ、見るからに痛々しかった。俺が殺したのか、死骸を潰したのか、判然としなかった。
あの死にかけじゃ、どうせ長くなかった。そう、言い聞かせて、千早の寝ている部屋を出た。
そのまま、マンションを後にしようかと思ったけど、戸締りが気になった。鍵の場所も分からないし、千早を起こすのも躊躇われた。半ば、途方に暮れて、暗い台所に座り込んだ。
シンクに落ちる水滴の音が、冷えた空気を揺らしていた。時々吹く風の音が空虚を運んできた。この空間の重苦しい黒と冷たさ、あまりにも静かで騒がしい音。
千早がいつもここに一人で住んでいるのかと思うと、怖かった。千早が何か得体の知れないものに浸食されているようで怖かった。
俺は手探りで内ポケットからウォークマンとイヤホンを取り出した。ボタンを押すと、数瞬置いて液晶に光が灯った。イヤホンを耳につけて、曲を選ぶ。ついこの間ボーカルを録ったばかりの、千早の新曲のデモ。世間一般にはまだ公開されていない。
「……俺はお前の歌、好きだけどな」
暗闇に一人。ウォークマンがランタンのように僅かに俺を照らしていた。俺を圧迫していた静寂の音は、千早の声でかき消された。
千早が明日の朝起きたら、真っ先に何を見るだろう。布団の傍で死んでいるてんとう虫を見つけて、何を思うだろう。てんとう虫の小さな骸に詰まった静けさに、千早は負けてしまうのか。
想像するのが怖かった。
「……俺は多分、お前の歌の方が好きだな」
耳をくすぐる千早の声を楽しみながら、大雪に口を噤んだ街の静けさを想像してみた。
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