持っていったスマートフォンの電池はまもなく切れて、今の亜美に情報を伝えてくれるものはFMラジオの番組だけになっていた。ポータブルラジオも、もうすぐ電池が切れる。ひとりで家を抜けだして、こうやって何もない土手に寝っ転がって、DJの他愛もない話を耳に流しつつ、夜空を見ている。

「……吸い込まれそう」

 星が煌めいているかどうかは見えないけれど、なんとなく空に手をかざしてみる。身体を起こすと、周りには川と陸橋と、そして車の通らない静かな道路しかない。再び土手に頭を置いて、身体の力を抜いて。錯覚なのかもしれないけれど、亜美は空が永遠に繋がっているんだと感じて、この星が丸い、ということも実感する。球体のど真ん中に居るような感覚に陥る、それが不思議だ。

『日付が変わるまであと5分、本日の最後の曲はぜひ、貴方と一緒に――』

 FMラジオから流れ出す曲は、甘いメロディーの洋楽。歌詞は頭の中に流れてこない。こうやってボーっと空を見て、知らない曲を聞きながら、雲に隠れて見えない星を手探りで掴もうとして、一日の出来事を振り返ることが、なんとなく亜美にとっては麻薬的な楽しさがあって、こうして抜け出せる日には家を飛び出してきている。

「……今日、あったこと」

 亜美の声と、川のほんの小さなせせらぎ以外に、此の場所に音は無い。アイドルをしていると、どうしても音の多い場所に居ることが多くなってしまう。アイドル仲間で賑わう事務所、音楽番組を収録するテレビ局、帯番組をオンエアーするラジオ局、ネット番組でファンの誰かのコメントを読んで楽しむ配信スタジオ、顔なじみの記者さんにアイドル活動について話すいつもの喫茶店。どこも、どの場所も音であふれている。それを悪いことと思うことは決して無い。音が必要だと分かるのは、失くした時だということは理解しているから。
 でも、音に酔ってしまうということも確かにあって。そういう状態になると、亜美はこうして日付が変わる少し前に、スマートフォンとラジオを手に、家を飛び出す。両親は病院に勤務していてこの時間に家には居ないし、双子の姉の真美はぐっすりと眠っている時間だ。
 ……最近は、亜美がレッスンから帰ってくると真美が既に寝ていたり、お風呂に入ってたり、今までの生活と比べるとふたりのズレというものを感じることが増えてきた。前は一緒だったのに。起きるのも、学校にいくのも、アイドルをするのも、全部一緒。でもそれはいつか変わってしまうんだろうなと、少し思っていた。それは亜美が真美と別のユニットに入る、ということで顕著になったと思うけれど。

「……りっちゃんに褒められたよー」

 これはあくまでも自分への報告だから、何が返ってこなくても構わない。少し寂しいけれど、亜美の寂しさとか喜びとか、そういういろんな気持ちを全部受け取ってくれるのがこの広大な夜空なんじゃないかと思う。

「……あと、今日は真美と話せなかった」

 朝起きると、真美は既に出かけていた。早くから兄ちゃんと出かけなきゃいけないから、っていう旨のメモを残して。当然事務所に行くのもひとりだし、行った所で真美はどこか遠くで営業のお仕事をしていたんだろうし。竜宮小町の仕事が始まったら、あとは時間は一瞬で過ぎていって。歌番組の収録、雑誌の取材、写真撮影、レッスン。いおりんは本気で頑張ってるし、あずさお姉ちゃんもみんなをまとめるために努力してる。りっちゃんも竜宮小町をトップアイドルにしたい、って意気込んでる。そんな中でひとりだけ、真美と話せてないからってテンションが低いままでいるわけにも行かない。強制的に自分の心のギアを入れて、夢中でお仕事やレッスンをこなしていったから。
 そして帰って来れば、真美は仕事を終わらせてクタクタの身体を休ませている。二段ベッドの上の段で、たまにパジャマにも着替えずにTシャツとスカートのまま寝てしまっている時もある。亜美はだいたい、そんな真美に布団を掛け直してあげている。多分、気づかれていないだろう。
 そしてひとりでお風呂に入って。髪を乾かして、リビングのソファに座ってひとりホットココアを飲んで。気にする必要もない電気代が気になって、リビングの電気を半分、消してみたり。テレビをつけてもニュースで大人達が難しそうな話をしているだけで。テレビの電源を消して、リモコンをソファの上に放り投げて。音のある1日に疲れていれば、そのまま別の服を着て外に出かけるだけ。

「……真美も、疲れてるんだよね」

 家を出て5分も歩かずに、土手へと辿り着ける。横には人通りの少ない道が通っていて、逆側を向けば月光に照らされて青みがかった川と、その周りと取り囲む原っぱが見える。東京にいながら緑を感じさせてくれるこの風景は、亜美の心を落ち着かせた。

「この空の向こうに、確かに星はあるのに」

 イヤホンから聞こえてくる楽曲は、ずっと同じテンポで、どこを盛り上げるでもなく進んでいく。曲名も歌詞も分からないのに、何故か暗い夜空に浮かぶ月となんとなくマッチしているように思えた。
 星が向こうに存在していても、雲に隠れてしまえば輝きは認識できない。そんな、当たり前のこと。

「当たり前……」

 当たり前なんだと思う。亜美が空の下にいて、真美が星なのだとしたら、きっとお互いが知らないうちに雲を作り上げてしまって、だから見えているようで見えないと思うんだ。
 いつも一緒にいたから、余計に離れていることが不安で、経験したことのない心の痛みで、辛くて、でもそれはきっと、真美も同じで。竜宮小町のメンバーに選ばれた亜美と、選ばれなかった真美っていう劣等感は持っている、って前に本人から聞いたし。
 ――雲が壁を作っているなら、そんな脆い壁は壊してやる。

「……」

 曲はフェードアウトすることもなく終わって、DJの曲名紹介に移った。相変わらず、英語は分からないけれど。
 結局、結論は出ない。当たり前だと思う。亜美が勝手に悩んでるだけで、真美はそんなこと何にも感じていないかもしれない。全部、全部亜美の思い過ごし。多分そのほうが良いんだけど。
 それでも亜美と真美は、昔から考えたり動いたりすることはだいたい同じだったんだ。真美が楽しいときは亜美も楽しかったし、だから亜美が悲しいと思った時に、真美も悲しいって思ってくれてるんじゃないか、なんて勝手に思ってたりもする。双子だから。話せない日は今日だけじゃないし、前から全然会話もできていなくて、一週間に二言三言なんてザラだけれど。そこだけは変わってない、昔と一緒なんだって信じたい。
 こんな自己解決。でも、こうして夜空を見たから、風に触れたから、音のない場所でひとり、知らない曲を聞いたから。いつもと違う環境だから、落ち着いて出せた結論が、これなのかもしれない。
 ゆっくり、ゆっくりで良い。だから、話せる時間を、笑える時間を作っていきたいと思う。

 ラジオはタイマー機能の作動で、0時ちょうどにきっちり電源を落とした。
 今度こそ、ほとんどの音が聞こえない。川のせせらぎ、ただ、それだけ。

 曖昧な答えを出したことにそれとなく満足して、亜美はこうして、夜空を見ている。