「全く、プロ失格ね」と伊織が言うものだから、私は”そんなことないよ”とも、”そうだね”とも言わなかった。彼女の性格からして、おかしな慰めは逆に嫌だろうから。そして、伊織のことをプロ失格だと肯定するほど、私はちゃんとアイドルをできているわけでもないと思ったから。
 伊織が一人暮らしを始めたのはつい先月のことだから、遅かれ早かれ誰かを頼ることになるだろう、と律子さんも言っていたし。伊織はプライドが高いと思われてるかもしれないけど、みんなに迷惑をかけたくないとか、格好悪いところを見せたくないとか、根本的な考え方は誰か主体だったりする。迷惑じゃないから、私から進んで此処に来たんだよ、ということを伊織に理解してもらうまで、数分を要したけれど。

「春香は仕事に行かなくて良いの?」
「今日はオフだよ」
「あっそ」

 ありがと、と伊織は少しだけ微笑んで言った。女の子の一人暮らしにしては広いマンションの一室で、高そうなベッドで私に背を向けて寝る彼女の背中は小さくて。それでもその背中が、竜宮小町というユニット、ひいては765プロの全体を背負っている。未だにうちの事務所の稼ぎ頭は竜宮小町で、美希ひとりも敵わないぐらいだから、きっと私が想像するよりもずっと、伊織はストレスを溜め込んでいたんだと思う。そう考えると、伊織は色々と深く考えすぎなんじゃないかって、ふとそんなことを思った。

「伊織、明日もお休みになったから」
「……そうなの?」

 私の方に身体を向けて、ときたま咳をしながらどこを見ているか分からない目で、伊織は質問を続ける。

「どうして休みなの? 律子のスケジュール管理? 亜美とあずさは?」
「落ち着いて……律子さんがスケジュールを動かしたんだよ。だから竜宮小町がお休み。明日はふたりも伊織の家に来るんじゃないかな」
「駄目、うつしちゃうじゃない」

 亜美もあずささんも、来たいと思うよ。リーダーの伊織を元気づけたいって、思うんじゃないかな。――と、私は返した。伊織はそう、と言った後、また私に背中を向けて、すぐに寝息を立て始めた。寝顔を誰かに見られたくないのかどうか、それは分からないけど。こういう日常のちょっとした一面から、伊織の性格が分かる。

 伊織を起こさないようにベッドサイドから離れて、隣の畳部屋に移動する。携帯電話の電源を入れて、プロデューサーさんにメールをする準備にかかった。そろそろスマートフォンが欲しいけど、これでも充分友達とも、765プロのみんなとも連絡が取れるから、後回しにしている。
 未読メールは3件。ドライブモードがオンになっていたから、バイブレーションは無い。メールをしたあとに返せばいいや、とメールは開けなかった。
 件名は無題。そして本文、私は本当は伊織の体調を報告して、そして許可をとって確認した冷蔵庫の中身から、入っていなくていま必要なものをリストアップして、プロデューサーさんにメールを送って買ってきてもらう予定だったんだけど、伊織が何気なく呟いた一言がささくれみたいに気になって、ついついそれを打って、送信してしまった。

 プロって一体、なんでしょうか。

 本当は今日はお休みなんかじゃなくて、出るはずだったオーディションを辞退したから暇になった、というのが正しかった。ホワイトボードに書いてあったけれど、多分竜宮小町の3人はあそこを見ていないんだろうな。事務所にも滅多に来れなくなって、3人分のファンレターは溜まっていく一方で。辞退したオーディションだって、問題があったから断ったとか、そういうことじゃない。アイドル候補生として頑張っていくなかで、一緒にレッスンをしていた仲間が売れっ子アイドルになって、後から事務所に入った候補生の美希だって才能を見せつけてどんどんトップアイドルに近づいていって、私は勝手に脱落して、みんなの背中は遠ざかっていった。小さいころの「アイドルになりたい」って夢が、熱に浮かされたんじゃないかって、本当は普通に、堅実に生きていきたいんじゃないかなんて、自己否定をするようになってきて。このオーディションだってきっと受からないや、って勝手に思って、プロデューサーさんに辞退を伝えた。
 アイドルになりたかった。大きな舞台に立って、歌って踊って、笑顔でファンの人たちに迎えてもらって。後ろの人までちゃんと見えてる、って言いたくて。それぐらい、どこよりも広いアリーナで、歌声を高く遠く響かせたかったのに。
 私は勝手に、アイドル候補生のまま抜け出せないって現実に打ちのめされて、気持ちの整理も付けないまま、諦めようとしている。プロデューサーさんは、何度も何度も辞めないでもっと頑張ろうって、アイドルになろうって、励ましてくれる。
 頑張るってなんだろう。アイドルになる、っていうことがこんなに難しいことなら、私はそれを耐えてトップアイドルを勝ち取るほど、強い人間なんだろうか。独りで苦悩して、馬鹿みたい。

 メールの返信が来た。点滅する受信アイコン。バイブレーションは相変わらず無い。

「……」

 物事に筋道を立てて話をするプロデューサーさんのことだから、きっと長文で返してくれるんだと思っていたけれど、ディスプレイには数十文字で、『夢を仕事にして、そしてまた夢を誰かに引き継ぐことだよ』とだけ、書いてあった。
 伊織がベッドから立ち上がって、トイレに向かうのが見えた。
 私の夢は、公園で歌っていたお姉さんや、父親に連れて行ってもらって見たコンサートのアイドルだったり、いろんな人の夢をもらって、形成されたもので。私は知らないうちに、その夢を仕事にして、誰かにまたアイドルという夢を与えようと、そう行動していたんだろう。

 誰かに引き継ぐ前に、私の夢が揺らいでいる。
 高校3年生になって、周りがどんどん夢と現実の境界線を引いていって。大学受験、専門学校、留学、就職。今のまま楽しく、未来のことはあんまり考えたくなかったのに、いい加減に未来を見据えないと行けない時になってきた。それはきっと「逃げ」だから、いけないことだ。分かってる。分かっているんだけど、どうしても。今が楽しくて、逃げてきた。
 でも今からも逃げてしまったら、きっと私には何も残らない。逃避できるほどの過去が無い。何かに一生懸命だったことなんて、一度もなかった気がする。好きな男の子には告白も出来なかった。中学受験なんてする気も起きなかった。高校受験なんて最初から安全圏しか狙わなかった。テスト勉強だって惰性でやって来た。だから――

「春香?」

 ――引き戻される。「どうしたの」と私に近づく伊織。パジャマは熱のせいか汗で少ししっとりとしていた。着替えも用意しておかないと。そうだ、伊織の欲しいジュースとか、アイスとか、そんなものを聞かないと、

「春香っ」
「え……」

 伊織が私の肩を数回、揺すった。「どうしたの、そんな顔して」と言った。怖い表情をしていたんだね。なんでもないよ、と声が出ない。普段なら口が動いてくれる。大丈夫だから、と声が出ない。きっと心の奥底で、伊織に頼らないとダメだ、と思ってしまっている。いや、いけない。竜宮小町のことがあって、きっと悩みもあるだろうに、そこに私のなんでもない苦悩なんかを打ち明けて、伊織に重荷を、

「……夢って、なんだろう。アイドルって、どうやったらなれるんだろう」

 重荷を背負わせるわけにはいかないのに。


 伊織は「難しいわね」と腕を組んだ。私の正面に座って、じっと考え込んでいる。風邪を引いてるのに、ベッドの中に入らないと、悪化しちゃうよ。

「……夢は人それぞれだから、分からないわね。私には私の、アンタにはアンタの夢があると思う」
「うん……」
「アイドルになる方法なんて、ひとつしか無いわ」

 伊織はアイドルとして、竜宮小町のリーダーとして、普段テレビや雑誌で見せまくっている猫かぶりの笑顔を見せながら、

「今を楽しむこと!」

 と自信満々に言った。
 きっとそれが、竜宮小町のリーダーとして、アイドルとして頑張っている伊織の出した答えなんだろう。今を楽しんでいるから、テレビでも、ステージでも、歌えるんだ。踊れるんだ。
 伊織は春香らしくないわね、と私のおでこをつついた。私らしさって、伊織にとっては「元気」だとか「明るい」だとか、そんなことなのかな。確かに、そのイメージと今の私はずっと離れていて、こんなにも自信がなくて。

「少なくとも今の私は、そう思って演ってるわ。楽しんでる」
「……楽しむ」

「そう。お兄様や水瀬の家を見返すためにアイドルになったけれど、やっぱりそこでこの道を選んだのって、私が歌って踊って、誰かを勇気づけたりすることが好きだからだと思う」

 ……伊織は確かに、答えを持ってる。

「アンタが何に悩んでるかは知らないけど、そんな暗い顔じゃあ何も解決しないわよ」

 さて、と伊織が立ち上がる。

「私、もうちょっと寝るわ。まだ疲れが取れてないみたいなのよ」
「う、うんっ」
「春香の悩み、続きはベッドで聞くわ。ごめんね、ちゃんと聞いてあげたいけど」
「そんなの、全然気にしないでいいよ。風邪なんだから……あと」

 伊織が首を傾げた。プロは、自分の夢を誰かに引き継ぐこと。夢は、ひとりひとりにある。自分で解決させるしかない。そしてアイドルは、楽しむもの。それが、誰かに聞きながら、私が完成させた今の悩みに対しての”答え”だから。

「ありがとう。……答え、出た気がする」

 諦めたら、きっと永遠にトップアイドルになんてなれない。昔からの夢に、もう少しで手が届く場所まで来たんだから。
 伊織はさっきの猫かぶりとは違う、純粋な笑顔を見せてくれた。

「なら良かったわ。笑わない春香なんて、ガラじゃないもの」

 受かるまで何度もオーディションを受けて、レッスンもやって。アイドル候補生を卒業して、ステージに立つまで。もう少し足掻いても、バチは当たらない。