「あ、お母さん……?俺、俺だよ」
 電話口から若い男の声がした。
 ――お母さん。ひどく懐かしい響きだと思った。
「優?」
「……そう。優だよ。実はバイクで事故っちゃって……今すぐお金が」
「いくら必要なの?」
 彼が言い切る前に、聞く。彼の口調はその手のことに慣れた口調ではなかった。声は少し震えていて、後ろめたさも少し感じられる。私のまずい対応で途切れさせるのは嫌だった。
「に……いや、十万くらい……かな。」
「分かったわ。そのくらいならすぐにでも用意出来るから、口座の番号を教えて」
 彼がおずおずと口にする口座番号を、メモに控えた。そして、隅に『十万、優へ』と書き足す。
「じゃあ、すぐに振り込むから、待っててね。受け取れたらもう一度電話してちょうだい」
「……分かった。ありがとう」
 ありがとう、の言葉を最後に通話が切れた。なかなか礼儀正しい子だ。優も、こんな子になっていたかもしれない。
 と、すぐに、それとも詐欺をするような子になってたかな?と、思わず吹きだす。
 通帳と財布、携帯を鞄に放り込み、いつもの靴を履いて、近くのATMまで向かった。
 優はなかなか父親に似て、幼いながら端正な顔つきをしていた。涼しい目元は女の子受けが良かっただろうな。
 普段ならこういう追想の後、ひどく気分が落ち込んでしまって、頭痛と溜息とに悩まされるのが常だったが、今は不思議と笑みがこぼれる。自然な笑みが。
 そういえば、優は――優と名乗った彼はどんな顔つきなのだろう。
 声は少し掠れ気味で、低いが、滑舌は良くて聞き取りやすかった。彼を想像してみる。
 幼いころの優の様な中性的な外見とは程遠いんだろうな――
 ぼんやり考えながら歩いていた。ふと気がつくと、ちょうどATMを通り過ぎるところだった。
慌てて機械に駆け寄り、先ほどのメモを取り出す。
 入力のミスは無く、スムーズに手続きを進めた。
 金額入力の画面で十万と入力したのを訂正して、十二万にしておいた。彼くらいの年ごろは何かと金がかかるものなのだ。
 最後の画面、確認の画面で表示される振り込む金額、口座の番号、そして振込先の名前。

 キサラギ ユウ――

 そうだったら、どんなに良かったか。正真正銘、赤の他人の、見覚えのない名だった。
 タッチパネルに触れ、入力を完了する。
 機械から吐き出された利用明細証をひったくり、足早に外へ出た。

 大きく、長く、溜息を付いた。
 数分間を置いて、携帯が震える。
「もしもし」
「……もしもし、振込終わったけど、ちゃんと受け取れた?」
「……うん、ありがとう」
「若いうちは何してもいいけどね、あんまり無茶しちゃ駄目よ?」
「……うん」
 ――ご飯はちゃんと食べてるか、友達とは上手くやってるか、恋人はできたか……
 私の質問に、彼は律儀に答えた。もう、目的は果たしたんだから、さっさと切ってしまえばいいものを。
 それとも、給料分の働きはするつもりでいるのかな。自嘲的な笑みがこぼれる。
「……長話もなんだし、そろそろ切るわ。偶には家に帰ってくるのよ?」
「……分かってるよ。じゃ、また」
「うん、また……」
「……ありがとう、お母さん」
「気にしなくていいのよ。優……」
 優、と改めて呼んだ瞬間、喉元に何かがこみあげ、目頭が熱くなる。慌てて携帯を耳から離した。
 一つ、深呼吸をしてから、帰り道を歩く。
 十二万円分の会話は堪能できたかな――
 自分に問いかける。
 いくらなんでも、二十分で十二万円は高い。高すぎる――
 私はまた、自嘲的に笑った。