このSSは貴音「月夜の逢瀬」アフターストーリーです。


「あなた様!ご覧ください、素晴らしき絶景ですよ」

「そうはしゃぐな貴音、別に風景は逃げやしないから」

「…あなた様は、あまり乗り気ではないのですか?」

「そ、そんな事は無いさ!ただ…そうやって、はしゃいでいる姿を見るとな、昔を思い出す」

「はて…」

「…貴音ってさ、周りからは、高貴なお姫様みたいなイメージを持たれていたけれど、こうして子供っぽいところもあってさ…」

「…あなた様の前では、本当の姿が出るのですよ。あなた様の前だけは、私は飾らず、強がらず、ありのままを…」

「それは光栄だ…」

ここは、とある山中の温泉旅館。
紅葉に彩られた山腹の鮮やかな姿を一望できる部屋に、私達は宿を取りました。
開け放たれた窓から入る、少し肌寒い位の風が肌を撫でていきます。

「貴音…少し、散歩に行こうか」


観光シーズンの割に、ここを訪れる人達の数は多くありません。
落葉を踏みしめるたび、乾いた音が耳に届きます。
木々は赤く、または黄色く色付き、晩秋の山々に華やかな風景を彩ります。
ゆっくり、ゆっくりと歩を進める私達を見ているのは、この山の自然のみ。
都会の喧騒を離れたこの地を旅行先に選んでくれたのは、私への配慮でしょう。

「貴音…今度の映画で、一旦活動を休止すると言うのは、本気か」

「私は、あのような場で嘘偽りを申す様な事はございません…」

「…あの、インタビューのコメントも、か」

「はい」

隣に寄り添うように歩くプロデューサーの表情は分かりません。
その口調は、あくまで私の事を気遣う様に、優しく、柔らかい物でした。

「今、お前の人気は絶頂期だ。後輩のアイドル達も、お前を目標に励んでいる」

「物には引き際と言う物があります。私の人気が、未だその力を世に知られていない新たな可能性を持つ彼女達の成長を妨げるやもしれません…」

まだ、巣立つ前の雛鳥かも知れません。しかしそんな彼女達も、私の見る限りでは、私以上の素質を持つアイドルが幾人も居ます。
私が居る事で、彼女達に要らぬ重圧をかけてしまう。
そう考えた上で、春香や伊織は、自らその道を譲ったのでしょう。
私も、そろそろ頃合いです。

「貴音が、そう言うのなら俺に止める事は出来ない…今まで、本当にありがとう、お疲れ様」

「…それに、私は、この10年、いつも傍で支えてくれた方に、恩返しをしたいのです」

「恩返し?」

「はい…私の、一方的な我儘かもしれませんが」

「…貴音には、俺が恩返しをしなきゃならないくらいだよ」

「あなた様…」

「今まで、俺みたいな半人前のプロデューサーについてきてくれて、本当にありがとう」

「…あなた様が居なければ、私は今までアイドルを続けてこれなかったでしょう」

「そうかな?」

「ええ…そうですとも」

冷たい風が、私とプロデューサーの間をすり抜けていきます。
まるでそれが、2人を引き離すかのような感じがして、私は少し強く、プロデューサーの腕にしがみつきました。

「どうした?貴音」

「…いえ、何でもございません…」

「…少し、冷えて来たな。宿に戻ろうか」

「はい…」


傾き始めた太陽が山々を紅く照らすのを眺めながら、私達は宿へと戻りました。


「…!これはまことに豪勢な食事ですね」

部屋に戻ると用意され出した食事は、舟盛りを始めとして山の幸、海の幸を存分に生かしたものでした。

「貴音が喜んでくれてよかったよ」

「ふふっ、やはりその地の物を食すと言うのは良き事ですね…さあ、あなた様」

私は、プロデューサーのグラスにビールを注ぎます。
どうも、このビールという飲み物は私は好きではないのですが、プロデューサーはグラスに注がれた黄金色の液体を一気に飲み干します。

「はぁ…旨い。貴音が注いでくれたからかな?」

「ふふっ、お世辞がお上手ですね。では、私はこれを」

「日本酒か。確かこの辺りの地酒だぞ。ほれ、注いでやるから」

「ありがとうございます…」

なみなみと注がれた猪口の中身を、口に流し込むと、芳醇な香りと純米酒らしいうまみが口いっぱいに広がります。

「ふふっ、まさかあの頃は、こうしてあなた様と酒席を共にする事になろうとは思いも到りませんでした」

「俺もだよ。さあ、料理も食べよう。ここの旅館は料理も美味いんだ」

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「まこと、美味で御座いました」

「ふふっ、ご満足いただけたかな?」

「ええ、やはりあなた様の目は確かですね」

「せっかくの二人きりの旅行だからな……なあ、貴音」

「はい」

「…俺、お前のプロデューサーで居られて幸せだ」

「私も、あなた様のようなプロデューサーと…いえ、殿方と出会えて、幸せです」

「でも、もっと幸せになりたい、お前の事を幸せにしてやりたい」

「…」

「…貴音、俺と―――」


そう、全ては、月の光の下の出来事…
何時までも変わらぬ、儚い光…
しかし、それでも月は輝き続けます。
太陽が空にある限り。その光を受けて輝き続けるのですから…


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「あなた様、お身体の具合は良いのですか?」

あれから数十年の月日が経ちました。
私も芸能活動を引退し、もう幾つの季節が廻ったのでしょう。
「あの時」と同じ、月の綺麗な夜でした。
自宅の広縁の籐の椅子に横たわる「夫」の姿に、私は一抹の寂しさも覚えます。

「…ああ、貴音か」

しわがれた声、やせ細った体躯、当時の面影を残すのは、少し気まずそうに細められた目の表情くらいでしょうか?
昨今の人の生の長さとしては、夫は大往生と言っても良いでしょう。
着物の裾や袖から覗く手の細さに、あの頃の快活な姿を重ね合せそうになるのを堪えつつ、私も腰を下ろします。

「ええ。どうしたのです?珍しいですね、ご自分でこちらに来られたのは」

「少し、昔を思い出していたんだ…あれから、もう何十年とたったんだな、と」

首をめぐらせ、夫は空に浮かぶ月を見つめています。

「…あの時も、こうして月を見ながら、2人で肩を寄せ合いながら…でしたね」

あの時と変わらないのは、この月の輝きだけ。
私自身も、身体の衰えは感じております。
顔には、年相応の皺も刻まれましたし…
しかし、あの月を眺めている時だけは、あの数十年前に戻れる気がしていました。

「…高木社長が亡くなって、俺が765プロを引き継いだ、それからもう30年だ。…律子の孫、アイツらは上手くやっているかな」

「ええ…相変わらず、騒々しくも、活気のある様子で、私も昔の事を思い出すようでした」

「…律子、小鳥さん、千早、伊織、美希、真、雪歩、亜美、真美、春香、やよい、あずささん、響…俺が765プロに入社したときのメンバーは、もうお前と俺しか残っていないんだ」

「…ええ」

私達は、まるで彼女達を見送る様な役目を背負っていたようです。
皆、本当に安らかに眠りにつきました。
その子孫たちもまた、華やかな芸能界に立つ者も居れば、居たって平凡な生活を送る者も居るようですが、何れも健勝の様です。

「…お前には、ずいぶんと寂しい思いもさせて来たかもしれない。許してくれ」

「そんな…私は、あなた様と共におられた事、それが一番の…」

何故、その様な事を言うのですか?
いえ、私は分かっているのです。
何故、そういう事を言うのか。
何故、今なのか。
何故、私より先に、逝ってしまうのか。

「…なあ、貴音。俺と…」

「あなた様、私は…幸せですよ。あなた様の伴侶で居られて…とても…幸せです」

私は、夫の手にそっと、自らの手を重ねます。
それを握り返していた夫の手が、不意に力が弱められました。

「…」

「…あなた様…?」

「…」

「…あなた様…そうですか…お勤め、ご苦労様でした…私は、もう暫くこちらで、世の行く末、あなた様がその人生を掛けた765プロダクションの物語を、見てから逝こうと思います…それまでは、どうか皆と、お待ちくださいませ…プロデューサー」

不意に、冷たい秋の風が窓から吹き込みます。
ぱた、と何かが倒れる音がして、私は居間へと向かいます。

「…迎えに、来たのですか?」

それは、往年の765プロのメンバーの写真が入れられた写真立てが倒れた音でした。
今の風は…

「…申し訳ありません、私は、まだ逝く事が出来ません故…もう暫く、待っていてください」

それが何時になるのか、私にも流石に検討は付きませんでしたが、何れ、また彼女達と、それにプロデューサーとは会う事になるでしょう。
その日まで…私は、見守り続けるのです。
高みを目指す者達の、挑戦とその行く末を…